マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

田野畑村『本家旅館』(三陸への旅 その2)

2012年08月27日 | 

 三陸鉄道(略称 さんてつ)北リアス線は、宮古⇔久慈間のうち、小本⇔田野畑間が未だ不通ですが、その間は県北バスが運行されています。
 8月22日(水)、宮古を振り出しに久慈から八戸に抜けて、夕方には仙台に辿りつく為に、朝6時17分宮古発小本行きの列車の乗客となりました。列車は、小本までの25.1kmの距離を、殆ど山間いのトンネルを走り、海岸の展望はひらけません。漸く海岸線が見え始め、列車が下って行った先が「田老」。3・11大津波が全長1350m、地上高7.7m、海面高さ10m という大防潮堤を越えて、集落を襲いかかったのでした。今回の旅ではここでの下車はならず、列車から眺めるしかありませんでした。

 小本発7時10分のバスは田野畑着7時40分。駅から徒歩15分ほどの本家旅館を目指しました。
 旅館へは海岸への道ではなく、高台への道を行きます。懐かしい建物と、そこからの海と浜を写真を収めたかったのです。無断で敷地内に入り撮影していると、電気が灯っていることに気がつき、声をかけると、おだやかな感じの女性が現れました。津波のお見舞いの後、「女将が入院とのことで、残念ながら宿泊は叶いませんでした」と述べると、後から男性が1人顔を出し、「昨日電話をくれた方かね」と。後は居間に通され、冷たい飲みものと果物のご馳走にあずかりました。

 若く見えた男性は盛岡の人で、自前のトラックで巡回商店を経営していた八百屋さん。この方を仮に八さんとお呼びすれば、八さんは、3・11当日この近辺の「島の越」で被災されました。最初の女性は、旅館の長女にして千葉へ嫁がれた方。その2人の話は、
86歳の女将のことと3・11当日のことに及びました。
 女将は元学校の先生。普段は優しい人だが、仕事になると大変厳しい。50人の宿泊客相手に、洗濯機の無かった頃には洗濯物を深夜までこなしたこともあり、今年4月の旅館再開後も今まで通りの料理にひとりで奮闘なさったとか。その様な頑張りが原因で今回は熱中症となってしまったそうです。
 終戦後、復員したきた夫と結婚後、共に始めた旅館。その夫さんは震災1ヵ月前に亡くなっていましたが、津波対策として2000万円を費やして建てた塀が女将照子さんの命を救ったようです。津波は塀の中ほどまで上がってきていたそうです。(写真:本家旅館玄関)


        (写真:平井賀海岸)

       (写真:本家旅館付近から見た海)

 さて、八さんは車で、自分が地震に遭遇した地点の島の越と、北山崎を案内してくれるとのことで、ご厚意に甘えました。島の越は平井賀の南にある集落で、水門を入って直ぐの所に人家が立ち並びます。大地震の直後、水門を閉めてしまえば、直ぐに車は帰れなくなるから、急いで水門の外へ出ろとの村人の親切に背いて、「車より命が大事」と、すぐさま山へ車を回したそうで、避難者第1号、”てんでんこ”を実践したのでした。そこから海を眺めていると「津波は噴水の様に襲いかかって来た。3日間避難所のお世話になり、漸く盛岡に戻れました」とのこと。
 お得意さんの壊滅で八百屋は廃業、その後転職は5回。パワハラスメントにも遭ったそうで、本家旅館の女将に拾われて今日がありますとも語ります。職を失った方の前途は厳しいものがあることを改めて知りました。(写真:島の越海岸。破壊された防波堤)

 田野畑⇒(北リアス線)⇒久慈⇒(JR久慈線)⇒八戸⇒(東北新幹線)⇒仙台 で夕方仙台着。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。