ドイツとポーランドの国境の町ヴリーツェンで献身的な医療活動を続け、今なお市民から敬愛され、名誉市民ともなったDr.肥沼の偉業は、母国日本に伝わることは殆ど無かった。第2次世界大戦後、ヴリーツェンは東ドイツに属することとなり、ベルリンの壁が情報をも遮ってきたことが大きな原因だと思う。
Dr.肥沼についての情報が伝えられたのは、大学に客員教授として招かれた元立教大学教授村田全氏や現桜美林大学名誉教授川西重忠氏を通じてだった。
1989年、ベルリンの壁崩壊。ドイツ・フンボルト大学の客員教授の時に肥沼の墓を詣でた数学思想史の学者村田全氏は、Dr.肥沼がすべての患者を思いいたわり、励ましの言葉をかけ、誰からも信頼され尊敬されていたことを知った。帰国後、村田教授は朝日新聞の「マリオン」での尋ね人蘭に投稿。それを通じ、肥沼信次を知った館澤貢次氏は取材を重ね、1995年に『大戦秘史・リーツェンの桜』を著した。肥沼信次を知ろうとする人の基本書と言われている。
一方、3年半にわたってドイツに滞在した、川西重忠桜美林大学名誉教授は、帰国後講演活動を続けるかたわら冊子『八王子の野口英世 ドクター・コエヌマを知っています』を著し、先ごろ『日独を繋ぐ“肥沼信次”の精神と国際交流』を出版した。
二人に共通するのは、ドイツ人に愛された日本人がいる一方で、日本ではそのことが全く知られないという落差に驚き、そのことを日本で伝えようと決意したことだ。
テレビでは『アンビリーバボー リーツェンの桜』が放映され(You Tubeで見られる)、今年に入っては、2月5日の日本テレビで『ドイツが愛した日本人』という番組が放映されたそうな(「轟亭の小人閑居日記」より)。
私は、塚本回子さんから贈られた『日独を繋ぐ・・・』に載った講演を基に、川西氏が奇跡的にもDr.肥沼の墓にたどり着いた物語を綴ることにしたい。
川西氏は訪独直前、大学の先輩から“ドイツに行ったらリーツェンにある肥沼信次の墓を訪ねて欲しい”との葉書をもらった。帰国直前のある日、肥沼信次という名前とリーツェンという地名だけを手掛かりに、教え子夫妻の車でベルリンを出発した。ベルリンの北東140キロの地点にあるリーツェンを訪ね、墓地を捜し回ったが墓は見いだせなかった。 諦めて帰り掛けた頃、老婦人が声を掛けてくれた。その婦人によると、肥沼の墓のある場所はここではなく、更に北西へ80kmのところにあるヴリーツェン(Wrietsen)の町だとのこと。発音が似ているリーツェン(Lisezen)に行ってしまったのだった。川西氏たちは「何故、肥沼について貴方は御存じですか」と尋ねると、驚いたことに「私は、幼い頃肥沼先生にチフスの予防接種をして貰ったお陰で命を救われました」と返答。(写真:ヴリーツェン市内にある肥沼信次の墓)
一行はヴリーツェンの町に到着し、広大な共同墓地を見て回った。肥沼の墓碑を見いだせず途方に暮れていると、向こうから二人の婦人がやって来て、「あなた方は日本人ですか」と聞いて来た。経緯を話すと「私は、肥沼先生の下で看護婦をしていました。名をヨハンナ・フィードラと言います」と言った。彼女たちは肥沼の墓と顕彰碑の場所を教えてくれた。 偶然出会わせた二組のドイツ人は、ある人は命を救われ、ある人は先生の下で働いていたという奇遇。その出会いが無かったら墓にたどり着くこともなかったろうし、その後に続く長いドラマも展開しなかったかも知れない。(写真:テレビドラマ『リーツェンの桜』における一場面。右側がヨハンナ)
看護婦(現在は看護師)ヨハンナと出会えたことは更に大きな意味があった。肥沼の様子を直に聞くことが出来たからだ。彼女はこう述べている「1946年の3月に、ある難民の避難場所に治療に出掛けた時のことです。まさに地獄のような阿鼻叫喚の場所に私は入ることが出来ませんでした。しかし先生は平気でずかずかと入っていき、重症患者から順に診ていかれたのです。あの時の先生は勇者の様でした」と。
川西名誉教授は講演の最後に「ベルリン郊外の地方都市で神のように慕われ続けている事実があることを今日は報告させて頂きました。ヴリーツェンと八王子が肥沼を絆として、いつか結ばれる日がくることを期待して待ち望みたいと思います」と。
その日から15年の歳月を経て、両市は友好都市として結ばれ、肥沼の顕彰碑が建てられた。幾つもの偶然と粘り強い活動の結果だと思う。
蛇足ながら、私は大学時代に、村田全先生共著『数学の思想』(NHK出版)を読んだことがあった。50数年の時を経て、又先生の名に接するとは思いもよらないことだった。