六阿弥陀さまを江戸市民はどういう順番でどう廻ったのだろうか。初めは漠然と①から②、②から③の様に番号順に廻ったのだろうと考え、実際私はそう回ったのだが、江戸時代の詣で方はそうではないらしいことに気が付いた。(以下の文で①などは最下段の地図参照)
実は六阿弥陀詣を読んだ川柳は多数ある。今手元にある、北区図書館の蔵書『北区郷土資料館 調査報告第5号』には「六あみだと川柳」の章に94個もの川柳が登場している。それだけ江戸庶民には六阿弥陀詣が大人気であった証左だ。その川柳の一つに“五番目は一か六かへまはすなり”がある。この句から出発点は⑤の常楽院で、その次は①の西福寺へ行く廻り方と⑥の常光寺へ行く廻り方があることを示唆している。六の阿弥陀仏のうち江戸市中にあったのは上野付近の常楽院のみで他は郡部に属しているから、江戸市民は⑤を出発点にして回り始めるのが自然だったろう。その二つの廻り方でも⑤から①へ回るケースが多かったらしい。
近藤富枝著『永井荷風文がたみ』は「おわりに」で、「敬愛する荷風の書をバックに秘めて、こうして私の故里遍歴がはじまった」と書いているが、そのひとつに六阿弥陀詣がある。その中で彼女は次の様に書いている。
「順路は五番常楽院から始まるのが普通で、次に四番田端の与楽寺、西ヶ原無量寺、豊島西福寺、沼田の延命寺、最後に六番常光寺となったらし」と。⑤→④→③→①→②→⑥ との回り方を述べている。③の次が②でなく①であることがポイントで、私もこの説に賛成だ。③の無量寺は御成り街道に面している。③→②→①と進むのでは重複して歩く部分が出てしまうが、③→①の道のりでは王子までは御成り街道沿いに進めばよい。①から②は大川沿いに歩いていったことだろう。
それにしてもこの全コース、30キロは下らないだろう。特に②→⑥は相当な距離だ。江戸時代の人は健脚であったにしても一日で一回りすることは大変だったろうと推測してしまう。“六つに出て六ッに帰るは六あみだ”なる川柳もある。朝6時に出て夕方6時までの12時間は歩いた、兎も角凄い脚力だ!ご近所の阿弥陀さまのみへのご挨拶もあったことだろう。
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