マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『マチュピチュ「発見」100年 インカ帝国展』を観る

2012年04月23日 | 映画・美術・芝居・落語

 4月16日(月)、頂いた券で家人と「インカ帝国展」を観て来ました。本来国立科学博物館は月曜日は休館のはず。その休館日の、時刻も17時~19時半と入館時間の指定のある珍しい入館券です。


 
今から500年以上も前、雄大なアンデスの地に美しい織物をまとい、いきいきと暮らしている人々、インカ帝国の人々がいました。彼らは文字も持たず、車輪も知らず、鉄器も無いのに巨大な建物をつくり、畑を耕し、交易し、自然とともに豊かに暮らしていました。1532年、僅か160人のスペイン兵士にインカ軍は敗れ、1533年にはその帝国は滅亡してしまいます。(写真:館内ポスターより)


 彼らはどのようなところに住んでいたのか? 何故多くのミイラが残っているのか? 行政組織はどうなっていたのか? 彼らは、何故一握りのスペイン人に征服されたのか?
 インカ帝国の空中都市・マチュピチュが発見されてから100年。それ以来の調査・研究を重ねての今日、これらの謎を明らかにしようとの意図を持った展示です。

 夥しい数の展示品です。複雑な幾何学模様の織物・楽器・装飾品・農機具・黄金で造られた太陽神の彫像・トウモロコシ酒を入れておいた土器等々。圧巻はミイラ4体の展示。
 特に興味を覚えたことは、インカの道と数字です。インカには、首都クスコを中心として各地方を結ぶ4万Kmにも及ぶ道路網「インカ道」が張りめぐらされていました。この道を「チャスキ」と呼ばれる、1日280Kmを駆け抜ける”俊足飛脚”が物と情報を伝達し、この道路機構を通じて帝国の統治が為されていたとの説明です。
 文字は持たなくても、数などの情報を伝える方法は持っていました。「キープ」と呼ばれる謂わば”縄のれん”です。結び目の位置と結び目の数により、十進法による数を表したそうです。

 最大の謎は「マチュピチュ」です。「マチュピチュ」は、いったい誰が何のために建設したのか。山の尾根の高地にどの様な方法で下水道完備の建造物を作りえたのか。一部は明らかになりつつも、今なお謎を秘め続けています。
 最後に迫力満点の3Dスカイビューシアターでの映像が待っていました。530インチの大型シアターで、上空からの姿やスリリングな角度からの映像で、インカ時代の栄華を残す「天空の都市・マチュピチュ」をまるで鳥になったかの様に俯瞰する事が出来ました。これだけでも一見の価値あり!

 考古学・人類学・歴史学からのインカへのアプローチ。おぼろげな知識しか持たない私には、インカ学への格好の入門になっていました。気が付くと入館後2時間10分もの時間が経過していたのでした。(購入して来た公式ガイドブック「インカの謎がやって来る」をも参考にしました)


 


 


甲州路の春(その3 紅富士)

2012年04月21日 | 

 旅の二日目の宿は「山中湖マウント富士」。”宿泊して富士山が見えなければ宿泊代は頂きません”との伝説のある宿です。高台に建つ、このホテルからの富士山の眺望に自信があるのでしょう。以前宿泊した時にこの伝説の真贋をフロントで尋ねた事がありました。答えて曰く「今はやっておりません」と。かっては伝説を実施していたようです。


 4月15日(日)の朝5時過ぎ、何気なしにカーテンを開けると、昨夜来の雨は上がり、くっきりと富士が見えます。頂上付近は赤く染まり始め、紅富士になる事が予想され、ベランダに出てシャッターチャンスを待ちました。撮影した写真を眺めると、富士山はそれほど紅(くれない)には見えませんでしたが、太陽がすっかり昇ったときの真っ白の富士(写真 その1)と比べるとその違いが一目瞭然。紅富士(写真 その2)が撮影されていました。(右上の写真が写真1)



           (写真2:紅富士)


 紅富士と対照して赤富士があります。冬に雪化粧した富士山が朝日を浴びて紅に染まる状態を紅富士と呼ぶのに対し、赤富士とは雪が全く消えた晩秋から初冬にかけて、早朝に富士山が朝日に赤く染まる状態を言います。昨年11月に宿泊したときにダイヤモンド富士にはお目に掛かれましたが、翌朝は曇りで、赤富士は見られませんでした。

 さて10時過ぎ、宿を後に河口湖畔にある人形の館「与勇輝」館(2012年1月11日のブログに登場)に立ち寄り帰京の途に着きました。


甲州路の春(その2 漆家 花の宴)

2012年04月19日 | 

 甲州路を巡る旅の二日目の4月14日(土)、この日だけは晴れて欲しいと願っていたのに生憎の雨。毎年招待を頂く「漆家」さんの庭での”桃の花の宴”、雨ならば庭に宴を張れず楽しみが半減します。


 雨を気にしながらホテルの窓から外を何度も眺めていて気が付いたのが「勝沼ぶどう郷」駅舎の両サイドに見える花の盛り上り。甚六桜が満開と悟り、小雨を突いてまずは駅舎に向いました。昨年も訪れたこの桜、”陽光”よりはやや薄いピンク色ですが、駅舎周辺に600本もの見事な桜の杜が展開されています。駅線路周辺での桜としては日本一と言っても過言ではない豪華な桜です。(写真:ホーム下の甚六桜)



       (写真:旧駅付近の甚六桜)

 この様子を教え子2名にメールを送りました。実は大泉高校定時制で初めて担任をした教え子(=質屋の女房の4期後輩)の、新潟出身のTさんと青森は小泊生まれのYちゃんの二人を「花の宴」に誘うと、二人とも古民家に非常に興味を示し、この日を楽しみにしていました。来る車中で、この見事な桜を見逃しては勿体ないと、老婆心ながらのメールを送ったのでした。

 義弟運転の車で、私たちは「信玄餅」の桔梗屋
に立ち寄った後、漆家さんには11時過ぎに到着。程なく、塩山からタクシー利用の教え子2名も到着し、古民家内部を案内しました。この頃には雨は一時的に止んで来きて、二人を外に誘いました。前日の20度を超える好天が幸いして、甲府盆地の桃は7~8分ほど開花が進んでいましたが、少し高度を上げたここ竹森の辺りの桃は、今花開いたばかりです。それでも山桜や黄色いレンギョウや白色の李の花が里の春を彩り、日本の原風景を眺めるようで、二人とも大満足。


 12時過ぎに室内で”花の宴”開会。40名近くの方はいるでしょうか。注文しておいたお弁当や菜の花の和え物、ワインに佐賀牛のステーキの御馳走が加わり、話が弾みます。表にはテントが張られ、ここでお茶のお師匠さんからお点前も頂きました。あっと言うまに2時間が過ぎ去りました。毎年の心尽くしのうたげに感謝して、私たちはここを後にしました。好きなワインを飲まず車運転の妹に感謝しつつ、車運転は妹に任せ、慈雲寺の満開の糸桜を鑑賞した後、山中湖マウント富士へと向かいました。(写真:漆家玄関)



         (写真:漆家の前庭)



 教え子二人はタクシーで漆家さんから慈雲寺を廻った後甚六桜を堪能し帰京したとの事。「晴れていなくても、桃の花がまだでも、美しさは充分でした。来年も是非」とのメールに元担任はホットひと安心したのでした。
(写真:慈雲寺の糸桜)
 

 
 


甲州路の春(その1 ぶどうの丘 )

2012年04月17日 | 

 4月13日(金)から15日(日)までの3日間、甲州路を巡って来ました。宿泊地は13日が甲州市にある「ぶどうの丘」、14日が「山中湖マウント富士」です。
 実は今回の旅行計画のスタートは一年前に遡ります。昨年の4月11日のブログに書いた甲州巡りの旅の途次、妹から「来年は是非”ぶどうの丘”に宿泊したい」との話が出ていました。その実現に向っての第一歩が宿泊確保でした。

 以前は勝沼町営(現在は甲州市営)だった「ぶどうの丘」は人気が高く、特に4月上旬~中旬の金・土の宿泊は予約がなかなか取れません。予約受付開始は6ヵ月前の月初めからと聞いていましたから、10月1日の朝9時に予約電話を入れるも、我が家からの電話は通じず、辛うじて妹夫妻からの電話で宿確保が出来たのでした。

 さて今回の旅行の初日の13日に廻る場所は、旅に出る数日前にインターネットで桜開花状況を調べ、富士川町の「大法師(おおぼし)公園」と北杜市の「山高神代桜」と決めました。どちらも初めての訪問です。
 東京→(中央自動車道・中部横断自動車道)→増穂IC→大法師公園→(中部横断道・中央道)→山高神代桜→(中央道)→ぶどうの丘 と廻りました。


 大法師公園は富士川を望める小高い丘の上にあります。桜の本数は約2000本で、平成2年には日本さくらの会による「さくら名所100選」に認定されています。桜は満開を少し過ぎた頃でしたが、地元の方々が家族連れで花見の宴を催しています。私たちも用意して来たシートを敷いて、富士山を眺めながらのんびりと花見を楽しみました。散り出した桜吹雪を浴びながらの御酒とは無縁の花見ですが、この様な絶好のビューポイントに巡り合えるとは予想していませんでしたから、ラッキーとの思いを強く感じながらの花見でした。(写真:大法師公園内にて)



      (写真:大法師公園内にて)


 次に向ったのが北杜市にある”国指定天然記念物”山高神代桜で、日本三大桜のひとつ。日蓮宗実相寺境内に咲く、樹齢2000年と言われる古木の桜です。既に上に向って伸びる勢いはありませんが、幹の太さに年輪を感じます。昭和23年には「3年以内に枯死する」と宣告され、樹勢回復工事や土壌改良工事を施して今日に至っているそうですが、風格漂う樹木は見事に花を咲かせ、訪れた多くの人々を魅了してやまないものがありました。(写真:山高神代桜)



     (写真:桜を前景にして、甲斐駒ケ岳)

 「ぶどうの丘」にはワインカーヴがあります。入場料1100円を支払うと、ワイングラスを渡され、後は地下で自由にワインの利き酒ができます。”自由に”が最大のポイントです。このホテルへは3度目の宿泊ですが利き酒は初めて。恥ずかしながら、利き酒と言うより”飲み放題”的にご酒を頂いてしまいました。それも出来るだけ高価な3000円級の赤ワインを中心
に。安価に、じっくり甲州のワインを味わうには絶好の地との思いを強くしています。
 


『仮名手本忠臣蔵』を観る

2012年04月15日 | 映画・美術・芝居・落語

 四月花形歌舞伎は通し狂言「仮名手本忠臣蔵」。4月10日(火)に家人と夜の部へ出掛けてきました。


 今回は午前の部が「大序」「三段目」「四段目」「道行」。夜の部では「五段目」「六段目」「七段目」「十一段目」が上演されました。ご存知の方が多いと思いますが、この「仮名手本忠臣蔵」は、1703年(元禄15年)に起こった、大石内蔵助ら赤穂浪士47人による吉良邸討ち入りの「赤穂事件」を題材に取ります。
 この劇化は幕府から禁止されていましたから、事件後40数年を経て、時代設定を室町時代に移して、人物の名前も大石内蔵助を大星由良助、吉良上野介を高師直ということにして、江戸では漸く1749年(寛延二年)に初上演されました。(写真:パンフレットから)
 
 私は歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」を観るのは初めてです。各段毎に見せ場があります。「五段目」と「六段目」は連続の舞台で、有名な”おかる 勘平”の物語。恋仲のおかる(福助)との逢瀬を楽しんでいたばかりに、御家の大事に駆けつけられなかった早野勘平役を、六月に市川猿之助襲名の市川亀冶郎。
 おかるの父与市兵衛を殺めてしまったと早合点した勘平は切腹して自らの思いを吐露します。しかし、市兵衛の亡骸から、勘平無罪の真相を知った不破数右衛門らは、勘平が仇討ち連判状に血判を押すことを許し、勘平は疑いも晴れ、満足して息絶えるのでした。NHK大河ドラマで男臭い武田信玄を演じた亀冶郎。花道直近でその表情が良く見えます。襲名を間近に控え、油が乗って来ている感じです。

 見どころは「七段目」。祇園の一力茶屋で遊興に耽る大星由良之助(市川染五郎)。大きな志を悟られまいと同志をも欺く由良之助の元に、息子力弥から密書が届きます。遊女となってこの茶屋で働くおかるはその密書を盗み読みしてしまいます。それに気が付いて偽りの身請でおかるを殺めようとする由良之助の気持ちを悟り、自らの手で妹を殺めようとする兄寺岡平右衛門(松緑)。この3人のからみ合いも見どころです。由良之助の志を一途に信じ、陽気でひょうきんな性格の平右衛門役の松緑の表情豊かな演技が特に印象に残りました。

 最後の「十一段目」は、お馴染の討ち入り場面。遂に師直を討ちとり幕となりました。