9月6日のブログに書いた岩屋弁天道を『復元江戸情報地図』で調べた。地図上で弁天道を真直ぐに延長すると石神井川と交差する地点に紅葉寺(正式名金剛寺)があり、松橋弁天(岩屋弁天)とも書かれていた。知らなかった!これは是非訪ねようと思い立ち、9月8日の午後、暑さが少し和らいでから出かけた。(写真:安政時代の江戸の地図。1:6500)
『北区の古い道』に書かれていた分岐点の庚申塔情報を基に、分かれ道を左に進むと直ぐに明治通りにぶつかり、その上を今では「中央環状線」が走っている。その下を潜り抜け、なおも真っすぐ進むと都営住宅にぶつかり、既に弁天道は無くなっていることを知った。ここで古道を進むことは断念し、王子総合高の前を通る自動車道に出て石神井川を目指した。(写真:右が王子道、左が岩屋弁天道) 2・3度は訪れたことのある紅葉寺。お参りをした後松橋弁天の説明版を探したが見当たらず、石神井川の上流へと歩みを進めた。この川は蛇行が激しく、その名残りを留める場所の前に説明版はあった。(写真:金剛寺本堂)
「もともとこの辺りは、石神井川が蛇行して流れていた場所でした。左の絵は、『江戸名所図会』に描かれた《松橋弁財天窟 石神井川》ですが、(中略)画面を見ると、岩屋の前に鳥居があり、その横に松橋が描かれています。水遊びする人や茶店も描かれ、行楽客が景色などを楽しんでいる様子が見て取れます。崖下の岩屋の中には、弘法大師の作と伝えられる弁財天像がまつられていました。このため松橋弁財天とも呼ばれました。(以下略) 」。松橋が架けられていたから松橋弁天と呼ばれたのか、松橋弁天から橋名が松橋と呼ばれたのかは分からないが・・・。(写真:湾曲の名残の音無し緑地。この一角に窟があったか?)
この風景は広重『名所江戸百景』の「王子瀧の川」にも描かれ『名所図会』と細部は異なるが、大筋では似たような風景が描かれているので、ここでは『百景』を右に掲げたが、窟と松橋を確認下さい。今から僅か180年ほど前には、山と渓谷の織りなすこのような風景があったのだ。紅葉の名所として知られたと書かれていることから、紅葉寺とも呼ばれたことが良く分かる。
ところが
「滝は昭和初期に枯れていたようですが、像を収めていた岩屋は、昭和50(1975)年前後に石神井川の護岸故事が行われるまで残っていました。金剛寺境内をはじめ、区内には松橋弁天へ行くための道標が幾つか残っており、当時の名所であったことをうかがわせます」ともあった。その江戸時代の道標の一つに導かれて、令和の時代に私はここまでやってこれたのであった。
江戸から明治・大正から昭和にかけて、首都は“風情”を置き去りにして“安全”を獲得してきたことが良く分かる。