亮がバイトに行ってしまった後、ようやく直行は西沢の容態を訊ねた。
最も…これだけ元気な姿を見れば訊くまでもないことだったかもしれないが…。
「おかげさまで…だいぶ良くなったんだ…。 多少微熱が出ることもあるけど仕事があるからいつまでも悠長に寝てられないしね…。 」
西沢はそう言って笑った。
西沢のために買ってきた見舞いの花をノエルが花瓶に生けて寝室のサイドテーブルの上に飾った。
「ノエル…今日はバイトじゃないの? 」
同じ書店で働いているはずなのに、亮がひとりで出かけたので直行は不思議そうに訊いた。
「本屋さんは今日非番だから…ここでバイト…。 時々モデルやってんだ。
紫苑さんが人物を描く時のポーズ確認とか…滝川先生の写真の被写体とか…。
この前スタジオで亮と仕事してきた…。 結構…亮と組んでの仕事が多いよ…。」
ふうん…最近いつもふたりで行動してると思ったらそういう仕事してたんだ。
あのチョコだけじゃなかったわけね…。
「きみの方は何か少しは進展したのかい…? 」
西沢が直行に訊ねた。来訪の本当の目的を言いあぐねている直行に代わって話の取っ掛かりを作ってやった。
ただの見舞いではないことぐらい端からお見通しだ。
「ええ…少しばかりですが…。 週に二度ほど夕紀が生け花の紅村旭のところへ通っていることが分かったんです。
その場で抑えれば、暗示を解くことができるのではないかと…。
西沢さんのお力添えがあれば…のことですが…。 」
力添え…ね。 夕紀が紅村の配下にあることは、すでに西沢も予想していた。
夕紀が崇拝するイケメンの導師がいるという話を亮やノエルから聞いていたから。
「そのことは族長や克彦さんには相談したのかい? 」
西沢が探るような眼で直行を見た。
さっきとは打って変わって厳しい表情を浮かべていた。
「いいえ…まだ…。 」
直行は西沢の視線から目を逸らした。
「もう少し族人としての修練を積む必要があるな…。」
西沢は直行を直視したまま言った。
直行は訝しげに西沢を見た。
「街で偶然出くわしたのなら…僕もそのまま彼女の暗示を解くだろう。
だが…依頼となれば話は別だ。
僕にとって島田や宮原は今のところ身内ではない。
だから…権限のないきみからいくら頼まれても、勝手に他の一族のことに首を突っ込むわけにはいかないんだよ。
島田の族長か長老衆に相談してきちんと許可を得なさい。
紅村旭とトラブルになる可能性もあるんだから…。
誰にも相談せずに先走ってはいけない…一族を危険に晒すことにも繋がる。 」
若手の教育を怠っている…とあの時克彦は嘆いていた。
直行はここしばらく克彦の家に居候をしているらしいから、克彦があれこれ厳しく教え込んではいるのだろうけれど、族人の心構えなどは幼い頃から叩き込まれてこないと一朝一夕には身につかない。
克彦ひとりでは大変かもな…と西沢は思った。
直行は項垂れていたが、やがて気を取り直して権限のない自分が依頼に来た非礼を詫びると、克彦たちに相談してみます…と言って帰って行った。
ふたりの様子を不安げに見ていたノエルは直行を玄関まで送って帰ってくると、ふいに西沢の顔を覗きこんだ。
「怖い顔してるよ…紫苑さん。 そんな顔似合わない…。 」
ふっと西沢の顔に笑みが戻った。
家の鍵を開けて暗い玄関に灯かりをつけ、誰も居ないのに奥に向かってただいまと声をかけた。
返事なんか返ってくるわけはないけれど和がここで待っている気がして…。
本当は一度もこの家で暮らしたことなんかなかったんだ。
ここを買った時にはもうとっくに天国に旅立っていた。
あんな気持ちは懲り懲りだ。 二度とご免だ…。
滝川は居間に荷物を置くと、キッチンの水屋の上で微笑みかけている和の写真に手を合わせた。
和…僕はもう一度…昔のように紫苑と並んで歩くことにしたよ。
きみがいなくなった後…何となく距離をおいてしまっていたけれど…。
きみがよく言ってた…紫苑と僕はふたつの身体を持ったひとつの生き物だって。
僕等は齢も違うし考え方も違う…馬鹿なことを…と…その時は思ったけれど…少しは言えてるのかもな。
理由なんてよく分からないけど…紫苑がいなくなったら僕もこの世に存在する意味がなくなるような気がするんだ。
ほとんど人けのなかった家の中は全体に少し湿気た感じがした。
気休めにエアコンのドライをかけた。
週に二度ほど家政婦さんを頼んで掃除をして貰っているから、部屋自体は綺麗になっているはずだが、湿気た空気は何となく淀んでいて独特の臭気を発していた。
まあ…取り敢えず茶でも飲んで落ち着こう…ポットに水を入れて湯を沸かしながら滝川は何気なくあたりを見回した。
数日前に帰ってきた時は、紫苑のことが気になっていたせいかそれほど苦にならなかったが、改めてひとりになってみるとこの家は広過ぎた。
和の遺影とふたりで暮らすには少しばかり寂しいよな…引っ越そうかなぁ…。
そんなことを考えていると突然玄関の呼び鈴が鳴った。
誰だよ…今頃訪ねてくるのは…。
滝川はインターホンを取った。モニターに英武の緊張した顔が映った。
あらら…珍しい…。
急いで玄関のドアを開けた。
「英武…どうしたんだよ…? 急病か? 」
そう言いながら何だかそわそわしている英武を部屋に招きいれた。
英武は突然の来訪を詫びた。
ちょっと頼みがあって…。
居間に案内して席を勧めた。
「悪いな…僕も今帰ってきたばかりなんで湯を沸かしてるところ…。
こんなもんしかないけど…。 」
滝川は買ってきたばかりの缶コーヒーを英武の前に置いた。
「お構いなく…すぐ帰るから…。 あのな…恭介…。 」
言いかけて英武は少し躊躇った…が意を決したように話し出した。
「シオンがひどい風邪だってのに…見舞いにも行かせて貰えなかったんだ。
僕が暴れるといけないからって…。
分かってるよ…発作が起きたら病気の紫苑に何をするか分からないような僕だもの…みんなが止めるの当たり前なんだ。
だけど…情けない…心配なのに…シオンの看病くらいしてやりたいのに…。
必要な時に傍に居てあげられなくて…本当に情けない…。 」
英武は涙ぐんだ。英武がどれほど紫苑のことを大切に想っているか…滝川にも分からないわけではない。
けれども英武の中には紫苑を心から愛する気持ちと紫苑への虐待に及ぶ情動とが混在していて、とても手放しては同情できない。
「治したいんだ…本気で…。 いま治さないと…大変なことになるんだ…。
恭介…僕に力を貸してくれない…?
このままだと…シオンだけじゃなくて…千春ちゃんにも怪我をさせてしまう。 」
千春…? あ…ああ…なるほど…。 遅蒔きながら…英武にも春が来たのね。
随分遅いけど…。
「僕にできることは…してやるよ。
千春ちゃんのことがなければその気にならなかったってのは腹立つけど…。 」
それじゃあんまり紫苑が可哀想だ…と滝川は思った。
何年もひどい目に遭わされて…痛み苦しみに耐えてきたのに…。
「誤解…誤解だよ…。 僕はずっと治したかったんだ…。
だけど西沢家の体面があって…外部の専門医には掛かれないし、親父の許可が出なくて治療師に相談することさえ許されなかったんだ。
だけど…今度ばかりは僕も我慢できない…。
シオンの見舞いにもいけないなんて…兄弟なのに…大好きなのに…。 」
英武の頬を涙が伝った。
これまでまったく気付かなかったけれど英武もずっと苦しんできたんだ…。
紫苑に怪我を負わせるたびに英武の心にも見えない傷が増えていったのだろう。
滝川の胸が痛んだ。
息子ふたりに…こんな想いをさせてまで護らなければならない体面とは何なんだ?
いや…体面を護るためだけとは限らない…ひょっとしたら何か英武たちにも隠しておかなければならないような秘密があるとか…?
「英武…祥さんが許可を出さないわけ…を知っているか?
いや…知るわけないか…。
どうもそのあたりにおまえの病気の原因が隠れているような気がするんだけど…。
過去に遡って記憶を辿ってみる必要がありそうだな…。
そうなると僕だけじゃだめだ…まだ未熟だからな。 複合的な治療の腕が要る。
英武…有さんに頼もう…。
祥さんにはこのままいくと外部に知れる虞があるとか何とか言って許可を貰え。」
この際…嘘も方便だ。 相手が親父さんでも絶対おどおどすんなよ…。
おまえがこのままの状態じゃ…どの道何れそうなるんだから…と滝川は言った。
「分かった。 親父に話す。 有さんにも連絡する…。 」
決意を固めたように英武は言った。
気の弱い英武にとってあの父親に立ち向かうことは命懸けの大決心と言わざるを得なかったけれど…。
バイトの帰りに再び西沢の部屋に寄ってみると、あの籐のソファの上に丸まってノエルが居眠りしていた。
身体に掛けられた綿毛布の端からノエルのむき出しの肩が見えた。
西沢は仕事部屋に居るようで寝室は非常灯の明かりだけ、薄暗い中でその肩が白く浮き出ていた。
ノエル…時間…帰るよ…。亮はノエルを揺り起こした。
綿毛布が落ちてノエルの全身が浮き上がって見えた時、亮の心の中に西沢に対する謂れのない怒りに似た感情が湧き上がった。
「あ…亮…帰ってきたの? あらら…ご免ね…こんな格好で…。
紫苑さん…身体のラインを描いてたんだけど僕…途中で眠っちゃったみたい。
悪いことしちゃった…。 」
ノエルは慌てて服を着た。亮のひどく不機嫌そうな態度に、何か悪いこと言ったかなぁ…と思った。
西沢が気配に気付いて寝室にやってきた。
「おや…亮くんお帰り…。 」
部屋の灯りをつけながら西沢が言った。
「紫苑さん…ご免ね…。 途中で寝ちゃって…。 」
ノエルが申し訳なさそうに謝った。
「いいよ。 描けたから…。 あんな格好で…寒くなかった?
毛布は掛けといたけど…。 」
西沢が訊くとノエルは大丈夫と答えた。
今日はこれで帰るね…とノエルは鞄を手に取った。
「ああ…またお願いね…。 」
いつものように変わりなく西沢が微笑んだ。
「西沢さん…ノエルの…ノエルの裸はやめてくれる…? 」
突然…亮が怒ったように言った。
裸…って…ただのデッサンなんだけど…西沢は驚いたように亮を見た。
ノエルもびっくりして亮を見つめた。
「ノエルは…男の子だけど…でも…どこか女の子なんだ…。
まだ誰も触れていない…まっさらな身体…描くのやめてくれないか? 」
唇を震わせ怒りに満ちた眼で西沢を見つめた。
西沢はあっと思った。
「分かった…もう描かないよ…亮くん。 ちゃんとノエルには服着てて貰う。
無神経な注文つけて済まなかったね…ノエル…ご免なさい。 」
怯えたような顔で立ち尽くしているノエルに西沢は謝った。
いいえ…僕…全然気にしてないから…とノエルは答えた。
ノエルには亮の考えていることが分からなかった。
どうして…どうして突然そんなことを言い出すのさ…僕は何とも思ってないのに。
ただ絵を描いてるだけの紫苑さんを怒ったりして…。
ノエルは無言で前を行く亮の背中を恨めしげに見つめた。
仕事なんだよ…これは…ちゃんとバイト料貰ってるんだから…。
女の子と言われたことも、なんとなく腹立たしかった。
信頼していた亮の気持ちが急に見えなくなってしまったようで、保護者のような西沢を除けば、亮の他に心の拠り所のないノエルは、この突然の出来事に堪らなく不安を感じていた。
次回へ
最も…これだけ元気な姿を見れば訊くまでもないことだったかもしれないが…。
「おかげさまで…だいぶ良くなったんだ…。 多少微熱が出ることもあるけど仕事があるからいつまでも悠長に寝てられないしね…。 」
西沢はそう言って笑った。
西沢のために買ってきた見舞いの花をノエルが花瓶に生けて寝室のサイドテーブルの上に飾った。
「ノエル…今日はバイトじゃないの? 」
同じ書店で働いているはずなのに、亮がひとりで出かけたので直行は不思議そうに訊いた。
「本屋さんは今日非番だから…ここでバイト…。 時々モデルやってんだ。
紫苑さんが人物を描く時のポーズ確認とか…滝川先生の写真の被写体とか…。
この前スタジオで亮と仕事してきた…。 結構…亮と組んでの仕事が多いよ…。」
ふうん…最近いつもふたりで行動してると思ったらそういう仕事してたんだ。
あのチョコだけじゃなかったわけね…。
「きみの方は何か少しは進展したのかい…? 」
西沢が直行に訊ねた。来訪の本当の目的を言いあぐねている直行に代わって話の取っ掛かりを作ってやった。
ただの見舞いではないことぐらい端からお見通しだ。
「ええ…少しばかりですが…。 週に二度ほど夕紀が生け花の紅村旭のところへ通っていることが分かったんです。
その場で抑えれば、暗示を解くことができるのではないかと…。
西沢さんのお力添えがあれば…のことですが…。 」
力添え…ね。 夕紀が紅村の配下にあることは、すでに西沢も予想していた。
夕紀が崇拝するイケメンの導師がいるという話を亮やノエルから聞いていたから。
「そのことは族長や克彦さんには相談したのかい? 」
西沢が探るような眼で直行を見た。
さっきとは打って変わって厳しい表情を浮かべていた。
「いいえ…まだ…。 」
直行は西沢の視線から目を逸らした。
「もう少し族人としての修練を積む必要があるな…。」
西沢は直行を直視したまま言った。
直行は訝しげに西沢を見た。
「街で偶然出くわしたのなら…僕もそのまま彼女の暗示を解くだろう。
だが…依頼となれば話は別だ。
僕にとって島田や宮原は今のところ身内ではない。
だから…権限のないきみからいくら頼まれても、勝手に他の一族のことに首を突っ込むわけにはいかないんだよ。
島田の族長か長老衆に相談してきちんと許可を得なさい。
紅村旭とトラブルになる可能性もあるんだから…。
誰にも相談せずに先走ってはいけない…一族を危険に晒すことにも繋がる。 」
若手の教育を怠っている…とあの時克彦は嘆いていた。
直行はここしばらく克彦の家に居候をしているらしいから、克彦があれこれ厳しく教え込んではいるのだろうけれど、族人の心構えなどは幼い頃から叩き込まれてこないと一朝一夕には身につかない。
克彦ひとりでは大変かもな…と西沢は思った。
直行は項垂れていたが、やがて気を取り直して権限のない自分が依頼に来た非礼を詫びると、克彦たちに相談してみます…と言って帰って行った。
ふたりの様子を不安げに見ていたノエルは直行を玄関まで送って帰ってくると、ふいに西沢の顔を覗きこんだ。
「怖い顔してるよ…紫苑さん。 そんな顔似合わない…。 」
ふっと西沢の顔に笑みが戻った。
家の鍵を開けて暗い玄関に灯かりをつけ、誰も居ないのに奥に向かってただいまと声をかけた。
返事なんか返ってくるわけはないけれど和がここで待っている気がして…。
本当は一度もこの家で暮らしたことなんかなかったんだ。
ここを買った時にはもうとっくに天国に旅立っていた。
あんな気持ちは懲り懲りだ。 二度とご免だ…。
滝川は居間に荷物を置くと、キッチンの水屋の上で微笑みかけている和の写真に手を合わせた。
和…僕はもう一度…昔のように紫苑と並んで歩くことにしたよ。
きみがいなくなった後…何となく距離をおいてしまっていたけれど…。
きみがよく言ってた…紫苑と僕はふたつの身体を持ったひとつの生き物だって。
僕等は齢も違うし考え方も違う…馬鹿なことを…と…その時は思ったけれど…少しは言えてるのかもな。
理由なんてよく分からないけど…紫苑がいなくなったら僕もこの世に存在する意味がなくなるような気がするんだ。
ほとんど人けのなかった家の中は全体に少し湿気た感じがした。
気休めにエアコンのドライをかけた。
週に二度ほど家政婦さんを頼んで掃除をして貰っているから、部屋自体は綺麗になっているはずだが、湿気た空気は何となく淀んでいて独特の臭気を発していた。
まあ…取り敢えず茶でも飲んで落ち着こう…ポットに水を入れて湯を沸かしながら滝川は何気なくあたりを見回した。
数日前に帰ってきた時は、紫苑のことが気になっていたせいかそれほど苦にならなかったが、改めてひとりになってみるとこの家は広過ぎた。
和の遺影とふたりで暮らすには少しばかり寂しいよな…引っ越そうかなぁ…。
そんなことを考えていると突然玄関の呼び鈴が鳴った。
誰だよ…今頃訪ねてくるのは…。
滝川はインターホンを取った。モニターに英武の緊張した顔が映った。
あらら…珍しい…。
急いで玄関のドアを開けた。
「英武…どうしたんだよ…? 急病か? 」
そう言いながら何だかそわそわしている英武を部屋に招きいれた。
英武は突然の来訪を詫びた。
ちょっと頼みがあって…。
居間に案内して席を勧めた。
「悪いな…僕も今帰ってきたばかりなんで湯を沸かしてるところ…。
こんなもんしかないけど…。 」
滝川は買ってきたばかりの缶コーヒーを英武の前に置いた。
「お構いなく…すぐ帰るから…。 あのな…恭介…。 」
言いかけて英武は少し躊躇った…が意を決したように話し出した。
「シオンがひどい風邪だってのに…見舞いにも行かせて貰えなかったんだ。
僕が暴れるといけないからって…。
分かってるよ…発作が起きたら病気の紫苑に何をするか分からないような僕だもの…みんなが止めるの当たり前なんだ。
だけど…情けない…心配なのに…シオンの看病くらいしてやりたいのに…。
必要な時に傍に居てあげられなくて…本当に情けない…。 」
英武は涙ぐんだ。英武がどれほど紫苑のことを大切に想っているか…滝川にも分からないわけではない。
けれども英武の中には紫苑を心から愛する気持ちと紫苑への虐待に及ぶ情動とが混在していて、とても手放しては同情できない。
「治したいんだ…本気で…。 いま治さないと…大変なことになるんだ…。
恭介…僕に力を貸してくれない…?
このままだと…シオンだけじゃなくて…千春ちゃんにも怪我をさせてしまう。 」
千春…? あ…ああ…なるほど…。 遅蒔きながら…英武にも春が来たのね。
随分遅いけど…。
「僕にできることは…してやるよ。
千春ちゃんのことがなければその気にならなかったってのは腹立つけど…。 」
それじゃあんまり紫苑が可哀想だ…と滝川は思った。
何年もひどい目に遭わされて…痛み苦しみに耐えてきたのに…。
「誤解…誤解だよ…。 僕はずっと治したかったんだ…。
だけど西沢家の体面があって…外部の専門医には掛かれないし、親父の許可が出なくて治療師に相談することさえ許されなかったんだ。
だけど…今度ばかりは僕も我慢できない…。
シオンの見舞いにもいけないなんて…兄弟なのに…大好きなのに…。 」
英武の頬を涙が伝った。
これまでまったく気付かなかったけれど英武もずっと苦しんできたんだ…。
紫苑に怪我を負わせるたびに英武の心にも見えない傷が増えていったのだろう。
滝川の胸が痛んだ。
息子ふたりに…こんな想いをさせてまで護らなければならない体面とは何なんだ?
いや…体面を護るためだけとは限らない…ひょっとしたら何か英武たちにも隠しておかなければならないような秘密があるとか…?
「英武…祥さんが許可を出さないわけ…を知っているか?
いや…知るわけないか…。
どうもそのあたりにおまえの病気の原因が隠れているような気がするんだけど…。
過去に遡って記憶を辿ってみる必要がありそうだな…。
そうなると僕だけじゃだめだ…まだ未熟だからな。 複合的な治療の腕が要る。
英武…有さんに頼もう…。
祥さんにはこのままいくと外部に知れる虞があるとか何とか言って許可を貰え。」
この際…嘘も方便だ。 相手が親父さんでも絶対おどおどすんなよ…。
おまえがこのままの状態じゃ…どの道何れそうなるんだから…と滝川は言った。
「分かった。 親父に話す。 有さんにも連絡する…。 」
決意を固めたように英武は言った。
気の弱い英武にとってあの父親に立ち向かうことは命懸けの大決心と言わざるを得なかったけれど…。
バイトの帰りに再び西沢の部屋に寄ってみると、あの籐のソファの上に丸まってノエルが居眠りしていた。
身体に掛けられた綿毛布の端からノエルのむき出しの肩が見えた。
西沢は仕事部屋に居るようで寝室は非常灯の明かりだけ、薄暗い中でその肩が白く浮き出ていた。
ノエル…時間…帰るよ…。亮はノエルを揺り起こした。
綿毛布が落ちてノエルの全身が浮き上がって見えた時、亮の心の中に西沢に対する謂れのない怒りに似た感情が湧き上がった。
「あ…亮…帰ってきたの? あらら…ご免ね…こんな格好で…。
紫苑さん…身体のラインを描いてたんだけど僕…途中で眠っちゃったみたい。
悪いことしちゃった…。 」
ノエルは慌てて服を着た。亮のひどく不機嫌そうな態度に、何か悪いこと言ったかなぁ…と思った。
西沢が気配に気付いて寝室にやってきた。
「おや…亮くんお帰り…。 」
部屋の灯りをつけながら西沢が言った。
「紫苑さん…ご免ね…。 途中で寝ちゃって…。 」
ノエルが申し訳なさそうに謝った。
「いいよ。 描けたから…。 あんな格好で…寒くなかった?
毛布は掛けといたけど…。 」
西沢が訊くとノエルは大丈夫と答えた。
今日はこれで帰るね…とノエルは鞄を手に取った。
「ああ…またお願いね…。 」
いつものように変わりなく西沢が微笑んだ。
「西沢さん…ノエルの…ノエルの裸はやめてくれる…? 」
突然…亮が怒ったように言った。
裸…って…ただのデッサンなんだけど…西沢は驚いたように亮を見た。
ノエルもびっくりして亮を見つめた。
「ノエルは…男の子だけど…でも…どこか女の子なんだ…。
まだ誰も触れていない…まっさらな身体…描くのやめてくれないか? 」
唇を震わせ怒りに満ちた眼で西沢を見つめた。
西沢はあっと思った。
「分かった…もう描かないよ…亮くん。 ちゃんとノエルには服着てて貰う。
無神経な注文つけて済まなかったね…ノエル…ご免なさい。 」
怯えたような顔で立ち尽くしているノエルに西沢は謝った。
いいえ…僕…全然気にしてないから…とノエルは答えた。
ノエルには亮の考えていることが分からなかった。
どうして…どうして突然そんなことを言い出すのさ…僕は何とも思ってないのに。
ただ絵を描いてるだけの紫苑さんを怒ったりして…。
ノエルは無言で前を行く亮の背中を恨めしげに見つめた。
仕事なんだよ…これは…ちゃんとバイト料貰ってるんだから…。
女の子と言われたことも、なんとなく腹立たしかった。
信頼していた亮の気持ちが急に見えなくなってしまったようで、保護者のような西沢を除けば、亮の他に心の拠り所のないノエルは、この突然の出来事に堪らなく不安を感じていた。
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