怜雄と紫苑が部屋を出て行った後、怖くて動けずにいた英武は絵里がさらに錠剤を飲み込むのをぼんやりと見つめていた。
レオ…シオン…早く戻って来て…と願いながら…。
「紫苑…薬が嫌いなのね…。 仕方がないわ…。
少し痛いかもしれないけれど…ほんの一瞬よ…。 」
絵里は何だかぶつぶつと呟きながら細いナイフを取り出した。
間食にと少し前に家政婦が運んできた果物籠に備え付けられたナイフだった。
絵里は英武を振り返ると…紫苑…と呼んだ。
おいで…紫苑…一緒に行こう。
ここに居たって美郷の玩具になるだけだよ…。
ひらひらのドレス着せられてさ。
素敵よ…紫苑…ママの可愛いお姫さま…だって。
笑っちゃうわよ。
絵里はナイフを手に英武に近付いてきた。
英武はナイフが怖くて後退りした。
「絵里ちゃん…僕…シオンじゃないよ! エイブだよ! 」
私と一緒に行こう…紫苑。
「違う…違うよ…。 僕…シオンじゃない…。 絵里ちゃん…来ないで! 」
英武は叫んだ。
ママ…ママ…助けて…怖いよ…。
絵里の手が英武の肩を掴んだ。
英武の全身に鳥肌が立った。
今まさに絵里が英武にナイフを突き立てようとした時、美郷があわくって部屋に飛び込んできた。
美郷は絵里の手を掴み、刃物を取り上げようとして揉み合いになり、弾みで手を切られながらも一旦は絵里を退けた。
「何てことを! 子供に刃物を向けるなんて! 」
美郷は傷を負った手を押さえながら怒りの声をあげた。
「返して…紫苑を返して…。 」
ふらふらと立ち上がった絵里は再びふたりに迫った。
薬が効き始めたのか焦点が定まらないようで滅多やたらにナイフを振り回す。
僕…シオンじゃない…と英武が泣き叫ぶ。
「違うわ…この子は紫苑じゃない…英武よ。 」
美郷は叫ぶと同時に絵里に体当たりしてすぐに英武の身体に覆い被さった。
絵里は突き飛ばされた勢いでそのまま仰向けに倒れた。
ガンッと鈍い音がして絵里の身体が絨毯の上に転がった。
「お母さん…! 絵里ちゃんが…! 死んじゃう!」
怜雄と紫苑の声がして、美郷が恐る恐る顔をあげると、テーブルの脇にピクリとも動かない絵里の姿が見えた。
その傍で急に紫苑が倒れた…。
紫苑が絵里に刺されたと勘違いした英武はひどい衝撃を受け…紫苑が死んじゃう…と何度も叫んだ。
あまりの出来事に頭の中が真っ白になった美郷はその場に茫然と座り込んだまま動けなかった。
廊下の方で足音がして飯島と祥の父親…厳が駆けつけてきた。
厳はひと目見てすべてを察し、飯島は急いで絵里の容態を調べた。
暗黙のうちに厳と飯島は自分たちのなすべきことを行った。
怜雄と紫苑から刃物と美郷の怪我…そして絵里の最後の姿の記憶を消す。
絵里は薬を飲んで死んだ。
美郷と英武からは絵里の行動に関する記憶も消す。
美郷はただ薬を飲んで倒れた絵里を発見しただけ…。
祥の母…カタリナにはすべてが伏せられ…愛娘絵里は薬物の事故で亡くなったと知らされた。
それまで悠然と構えていた祥が大きく溜息をついて肩を落とした。
記憶の封印が解けてしまえば英武は事件のすべてを読み取ることができる。
幼い自分の記憶の他にも祖父や主治医が何をしたかも…。
有は言葉もなく力が抜けたようにソファに身を沈めた。
なぜ真実に気付かなかったのだろう…。
気付いてさえいたなら…。
「母さんを責めないでね…紫苑…。 あれは僕を助けるためにしたこと…。
本当に事故だったんだから…。 」
英武は涙を浮かべて紫苑に頼んだ。
紫苑は硬い表情ながら僅かに微笑んで見せ深く頷いた。
西沢の膝にノエルがそっと手をおいて心配そうに見つめた。
ノエルを安心させるようにその手を優しくとんとんと叩いて西沢は笑顔を向けた。
亮は思わずふたりから目を逸らした。
「美郷さんは英武の命を護ろうとしただけですよね。
絵里さんは薬でおかしくなっていたわけだし…刃物を振り回してもいた。
どう考えても正当防衛なのに…外部の人たちにはともかく有さんにまで隠そうとしたのはなぜなんですか?
有さんに真実を話していれば…少なくとももっと早い段階で英武の治療をしてやることができたでしょうに…。 」
滝川は真相を知られてがっくりしている祥に訊ねた。
祥はチラッと有の方に目を遣ると、もうこれ以上黙っていても仕方がないと思ったのかようやく重い口を開いた。
「すべては…紫苑を失いたくないための工作だ。
真相が分かってしまえば…有が紫苑を取り返そうとするに決まっている。
それまでの四年間…私も美郷も実の子同様に紫苑を愛しんで育ててきた。
それは祖父母である私の両親も同じこと…。
今更…まだ生活力もない有に奪われてたまるか…と思ったんだ。
それに…大学生だった有が紫苑を引き取って育てるより、西沢家で何不自由なく豊かに暮らしていけば紫苑も幸せだろうし、有も好きなように人生を歩める…。
ふたりにとってもそれが最もいい選択だとも考えた…。
何も西沢家の利だけを図っていたわけではない。
いまひとつは美郷の心に義理の妹を死なせてしまったという負い目を負わせるのが可哀想だった。
悪いのは絵里の方だ。勝手に子どもを産んで育てられずに手放しておきながら、男にふられて紫苑を道連れに無理心中を図ろうとしたのだから…。
実の妹が可愛くないわけではないし、不幸なやつだとも思うが…だからといって罪のない美郷を苦しめるわけにはいかない。
父と私は飯島の手を借りてすべてを丸く収めようとした。
すべては上手くいっていた。
事故死ではなく自殺と告げられた有はショックで他の可能性など探る余裕をなくしていたし、紫苑が実際に薬を飲まされていたことで自殺を疑う者も居なかった。
美郷と紫苑の関係が以前にも増して良好なのを見るにつけ…やはり真実は闇に葬るべきだと確信した。 」
自分たちが間違っていたとは祥は決して認めたくはなかった。
少なくとも美郷は事件を思い出すこともなく紫苑のことを気遣いながら母親として幸せに暮らしている。
紫苑にとっても祥や美郷は実の両親と何ら変わらない存在なのだ。
もし紫苑が真相を知っていたならこんな良好な親子関係が成り立ったかどうか…。
失敗だったのは英武に恐怖の記憶が残ってしまったこと…。
飯島や厳が考えていたよりもずっと奥の深いところで幼い英武の心はずたずたに傷付けられていた。
しかもその理由となる部分が消されてしまったことから、説明のつかない恐怖だけが残された。
絵里と紫苑がオーバーラップし自分が襲われ殺されるという恐怖から身を護るために紫苑を突き放し攻撃する。
かと思えば、大好きで大事な紫苑が死んでしまうかも知れないという恐怖が急速に湧きあがって紫苑に触れていないと我慢できない。
辻褄の合わない感情が入り乱れて表面化する。
「英武は…どうにかしたいと何度も言ってきた。
紫苑を苦しめる自分に耐えられないと…。
怜雄も治療を勧めた…。
しかし…治療を受けさせればすべてが明らかになる
叱りつけてその場その場で感情を抑えさせる以外に方法がなかった。 」
祥がそこまで話し終えると西沢は急に立ち上がった。
みんな驚いて西沢を見つめた。
病人のように顔色がさえず、ひどく気分が悪そうで唇の色まで薄く見えた。
「少し…休んでいいかな…? 」
西沢は抑揚のない声でそれだけ言うと返事も待たず、誰を振り返ることもなく寝室の方へと引き上げていった。
ノエルの目が不安げにそれを追い、つられるように立ち上がると亮に声を掛けることもなく西沢の後に従った。
追うべきかどうか…亮は迷った…が…追わないことにした。
「英武…記憶が解放されて恐怖の原因が分かったのだから…今までよりはずっと対処しやすくなるはずだ…。
焦らずに少しずつ治療を進めよう。
恭介…今日はこの程度にしておこう…。
過去を思い出したことで怜雄も英武も少なからずショックを受けただろうし、精神的にも疲れただろう。
日を置いて気持ちが落ち着いたら再び治療を始めることにして…。 」
有はそう提案した。恭介もそれに同調した。
正直なところ…有は自分の気持ちに決着をつけたかった。
今更過去のことをどうこう言うつもりも何をするつもりもない。
が…不本意にせよ…紫苑を祥に渡してしまったことで有が失ってしまったものを、それが必然だったのだと納得するための時間が欲しかった。
ノエルが部屋に入ると西沢は俯き、膝に肘をついて両手で顔を覆い、ベッドの端に腰を下ろしていた。
泣いているのかと思ったがそうではないようだった。
ノエルは黙って西沢の前に座り、そっと上目遣いに西沢を見上げた。
まるで可愛がられて育った犬が悩んでいるご主人の様子を伺うような仕草だった。西沢は顔を覆っていた手を離して、悲しい笑みを浮かべノエルの頭を撫でた。
「心配しなくていいよ。 どうってことないから…。
この期に及んでも人間ってのは嘘を吐き通す生き物だということに呆れただけさ。
養父が僕を手放したくないのは…僕が覇権を示す王の金印のようなものだからだ…。
僕はそのためにここに閉じ込められている…両の翼を捥がれて…。
英武の病気は僕のせいだと教え込まれて…身動きできないように鎖に繋がれて…。
僕のこれまでの人生は何だったんだろうね…? 」
西沢は子どもを抱き上げるようにノエルを軽々と膝へ抱き上げた。
「別に後悔しているわけじゃないんだ。
それはそれで家族の役には立っていたんだから。
僕はね…ノエル。
要らない子だと言われて…実の母に捨てられたとずっと思っていた。
だから…西沢の養母には要る子だと言って貰えるように、女の服も黙って着て…着せ替え人形にもなったし、英武の発作の度に身体中傷つけられても文句も言わなかった。
決して良い子じゃなかったよ。 喧嘩もすれば家出もするし…で心配もかけた。
そんなこんな除けば…みんなに必要だと思って貰うために勉強もスポーツも仕事もそれなりに頑張ってきた。
養母に喜んでもらえるように…さ。
それが…どう?
僕が一生懸命に喜ばせてきたその人が実の母を死なせた人だったなんて…。
笑っちゃうだろ…可笑しくて涙も出やしない…。 」
ノエルは西沢にかける言葉も見つからなくて項垂れた。
扉の向こうから滝川が声をかけた。
「紫苑…一応今日はこれでおひらきにした。
祥さんたちももう帰ったし…亮くんも今日は有さんのことが心配だから一緒に帰るってさ。
僕も明日から泊りがけで遠出しなきゃならないんでこれで帰るけど…三日くらいで戻ってくるよ。
ノエル…紫苑を頼むぜ…。 」
滝川に言われてノエルはただ…うん…とだけ答えた。
どうしてあげたら良いのか分からなかったけれど…。
じゃあな…と言って滝川も帰って行った。
マンションの部屋にふたりだけが残された。
「ノエル…きみも…帰りなさい…。 今日は仕事もなし…。 」
西沢はそう言って笑うとノエルを膝から降ろした。
立ち上がって出て行こうとする西沢にノエルはやっと言葉をかけた。
「僕じゃだめ? 」
怪訝そうな顔をして西沢が振り返った。
「僕…ずっと応援してた…。 紫苑さんが元気で頑張れるようにって…。
初めて会った日に紫苑さんがそう頼んだんだよ…だからずっと…。
今日は滝川先生も…輝さんも居ない…。
だから…傍に居てあげたいんだけど…僕じゃだめ?
いつもみたいに泊めて欲しいっていう意味じゃないよ…。 」
ノエルは真剣な眼で西沢を見た。
僕じゃだめ…って言われてもなぁ…西沢は困惑したように頭を掻いた。
次回へ
レオ…シオン…早く戻って来て…と願いながら…。
「紫苑…薬が嫌いなのね…。 仕方がないわ…。
少し痛いかもしれないけれど…ほんの一瞬よ…。 」
絵里は何だかぶつぶつと呟きながら細いナイフを取り出した。
間食にと少し前に家政婦が運んできた果物籠に備え付けられたナイフだった。
絵里は英武を振り返ると…紫苑…と呼んだ。
おいで…紫苑…一緒に行こう。
ここに居たって美郷の玩具になるだけだよ…。
ひらひらのドレス着せられてさ。
素敵よ…紫苑…ママの可愛いお姫さま…だって。
笑っちゃうわよ。
絵里はナイフを手に英武に近付いてきた。
英武はナイフが怖くて後退りした。
「絵里ちゃん…僕…シオンじゃないよ! エイブだよ! 」
私と一緒に行こう…紫苑。
「違う…違うよ…。 僕…シオンじゃない…。 絵里ちゃん…来ないで! 」
英武は叫んだ。
ママ…ママ…助けて…怖いよ…。
絵里の手が英武の肩を掴んだ。
英武の全身に鳥肌が立った。
今まさに絵里が英武にナイフを突き立てようとした時、美郷があわくって部屋に飛び込んできた。
美郷は絵里の手を掴み、刃物を取り上げようとして揉み合いになり、弾みで手を切られながらも一旦は絵里を退けた。
「何てことを! 子供に刃物を向けるなんて! 」
美郷は傷を負った手を押さえながら怒りの声をあげた。
「返して…紫苑を返して…。 」
ふらふらと立ち上がった絵里は再びふたりに迫った。
薬が効き始めたのか焦点が定まらないようで滅多やたらにナイフを振り回す。
僕…シオンじゃない…と英武が泣き叫ぶ。
「違うわ…この子は紫苑じゃない…英武よ。 」
美郷は叫ぶと同時に絵里に体当たりしてすぐに英武の身体に覆い被さった。
絵里は突き飛ばされた勢いでそのまま仰向けに倒れた。
ガンッと鈍い音がして絵里の身体が絨毯の上に転がった。
「お母さん…! 絵里ちゃんが…! 死んじゃう!」
怜雄と紫苑の声がして、美郷が恐る恐る顔をあげると、テーブルの脇にピクリとも動かない絵里の姿が見えた。
その傍で急に紫苑が倒れた…。
紫苑が絵里に刺されたと勘違いした英武はひどい衝撃を受け…紫苑が死んじゃう…と何度も叫んだ。
あまりの出来事に頭の中が真っ白になった美郷はその場に茫然と座り込んだまま動けなかった。
廊下の方で足音がして飯島と祥の父親…厳が駆けつけてきた。
厳はひと目見てすべてを察し、飯島は急いで絵里の容態を調べた。
暗黙のうちに厳と飯島は自分たちのなすべきことを行った。
怜雄と紫苑から刃物と美郷の怪我…そして絵里の最後の姿の記憶を消す。
絵里は薬を飲んで死んだ。
美郷と英武からは絵里の行動に関する記憶も消す。
美郷はただ薬を飲んで倒れた絵里を発見しただけ…。
祥の母…カタリナにはすべてが伏せられ…愛娘絵里は薬物の事故で亡くなったと知らされた。
それまで悠然と構えていた祥が大きく溜息をついて肩を落とした。
記憶の封印が解けてしまえば英武は事件のすべてを読み取ることができる。
幼い自分の記憶の他にも祖父や主治医が何をしたかも…。
有は言葉もなく力が抜けたようにソファに身を沈めた。
なぜ真実に気付かなかったのだろう…。
気付いてさえいたなら…。
「母さんを責めないでね…紫苑…。 あれは僕を助けるためにしたこと…。
本当に事故だったんだから…。 」
英武は涙を浮かべて紫苑に頼んだ。
紫苑は硬い表情ながら僅かに微笑んで見せ深く頷いた。
西沢の膝にノエルがそっと手をおいて心配そうに見つめた。
ノエルを安心させるようにその手を優しくとんとんと叩いて西沢は笑顔を向けた。
亮は思わずふたりから目を逸らした。
「美郷さんは英武の命を護ろうとしただけですよね。
絵里さんは薬でおかしくなっていたわけだし…刃物を振り回してもいた。
どう考えても正当防衛なのに…外部の人たちにはともかく有さんにまで隠そうとしたのはなぜなんですか?
有さんに真実を話していれば…少なくとももっと早い段階で英武の治療をしてやることができたでしょうに…。 」
滝川は真相を知られてがっくりしている祥に訊ねた。
祥はチラッと有の方に目を遣ると、もうこれ以上黙っていても仕方がないと思ったのかようやく重い口を開いた。
「すべては…紫苑を失いたくないための工作だ。
真相が分かってしまえば…有が紫苑を取り返そうとするに決まっている。
それまでの四年間…私も美郷も実の子同様に紫苑を愛しんで育ててきた。
それは祖父母である私の両親も同じこと…。
今更…まだ生活力もない有に奪われてたまるか…と思ったんだ。
それに…大学生だった有が紫苑を引き取って育てるより、西沢家で何不自由なく豊かに暮らしていけば紫苑も幸せだろうし、有も好きなように人生を歩める…。
ふたりにとってもそれが最もいい選択だとも考えた…。
何も西沢家の利だけを図っていたわけではない。
いまひとつは美郷の心に義理の妹を死なせてしまったという負い目を負わせるのが可哀想だった。
悪いのは絵里の方だ。勝手に子どもを産んで育てられずに手放しておきながら、男にふられて紫苑を道連れに無理心中を図ろうとしたのだから…。
実の妹が可愛くないわけではないし、不幸なやつだとも思うが…だからといって罪のない美郷を苦しめるわけにはいかない。
父と私は飯島の手を借りてすべてを丸く収めようとした。
すべては上手くいっていた。
事故死ではなく自殺と告げられた有はショックで他の可能性など探る余裕をなくしていたし、紫苑が実際に薬を飲まされていたことで自殺を疑う者も居なかった。
美郷と紫苑の関係が以前にも増して良好なのを見るにつけ…やはり真実は闇に葬るべきだと確信した。 」
自分たちが間違っていたとは祥は決して認めたくはなかった。
少なくとも美郷は事件を思い出すこともなく紫苑のことを気遣いながら母親として幸せに暮らしている。
紫苑にとっても祥や美郷は実の両親と何ら変わらない存在なのだ。
もし紫苑が真相を知っていたならこんな良好な親子関係が成り立ったかどうか…。
失敗だったのは英武に恐怖の記憶が残ってしまったこと…。
飯島や厳が考えていたよりもずっと奥の深いところで幼い英武の心はずたずたに傷付けられていた。
しかもその理由となる部分が消されてしまったことから、説明のつかない恐怖だけが残された。
絵里と紫苑がオーバーラップし自分が襲われ殺されるという恐怖から身を護るために紫苑を突き放し攻撃する。
かと思えば、大好きで大事な紫苑が死んでしまうかも知れないという恐怖が急速に湧きあがって紫苑に触れていないと我慢できない。
辻褄の合わない感情が入り乱れて表面化する。
「英武は…どうにかしたいと何度も言ってきた。
紫苑を苦しめる自分に耐えられないと…。
怜雄も治療を勧めた…。
しかし…治療を受けさせればすべてが明らかになる
叱りつけてその場その場で感情を抑えさせる以外に方法がなかった。 」
祥がそこまで話し終えると西沢は急に立ち上がった。
みんな驚いて西沢を見つめた。
病人のように顔色がさえず、ひどく気分が悪そうで唇の色まで薄く見えた。
「少し…休んでいいかな…? 」
西沢は抑揚のない声でそれだけ言うと返事も待たず、誰を振り返ることもなく寝室の方へと引き上げていった。
ノエルの目が不安げにそれを追い、つられるように立ち上がると亮に声を掛けることもなく西沢の後に従った。
追うべきかどうか…亮は迷った…が…追わないことにした。
「英武…記憶が解放されて恐怖の原因が分かったのだから…今までよりはずっと対処しやすくなるはずだ…。
焦らずに少しずつ治療を進めよう。
恭介…今日はこの程度にしておこう…。
過去を思い出したことで怜雄も英武も少なからずショックを受けただろうし、精神的にも疲れただろう。
日を置いて気持ちが落ち着いたら再び治療を始めることにして…。 」
有はそう提案した。恭介もそれに同調した。
正直なところ…有は自分の気持ちに決着をつけたかった。
今更過去のことをどうこう言うつもりも何をするつもりもない。
が…不本意にせよ…紫苑を祥に渡してしまったことで有が失ってしまったものを、それが必然だったのだと納得するための時間が欲しかった。
ノエルが部屋に入ると西沢は俯き、膝に肘をついて両手で顔を覆い、ベッドの端に腰を下ろしていた。
泣いているのかと思ったがそうではないようだった。
ノエルは黙って西沢の前に座り、そっと上目遣いに西沢を見上げた。
まるで可愛がられて育った犬が悩んでいるご主人の様子を伺うような仕草だった。西沢は顔を覆っていた手を離して、悲しい笑みを浮かべノエルの頭を撫でた。
「心配しなくていいよ。 どうってことないから…。
この期に及んでも人間ってのは嘘を吐き通す生き物だということに呆れただけさ。
養父が僕を手放したくないのは…僕が覇権を示す王の金印のようなものだからだ…。
僕はそのためにここに閉じ込められている…両の翼を捥がれて…。
英武の病気は僕のせいだと教え込まれて…身動きできないように鎖に繋がれて…。
僕のこれまでの人生は何だったんだろうね…? 」
西沢は子どもを抱き上げるようにノエルを軽々と膝へ抱き上げた。
「別に後悔しているわけじゃないんだ。
それはそれで家族の役には立っていたんだから。
僕はね…ノエル。
要らない子だと言われて…実の母に捨てられたとずっと思っていた。
だから…西沢の養母には要る子だと言って貰えるように、女の服も黙って着て…着せ替え人形にもなったし、英武の発作の度に身体中傷つけられても文句も言わなかった。
決して良い子じゃなかったよ。 喧嘩もすれば家出もするし…で心配もかけた。
そんなこんな除けば…みんなに必要だと思って貰うために勉強もスポーツも仕事もそれなりに頑張ってきた。
養母に喜んでもらえるように…さ。
それが…どう?
僕が一生懸命に喜ばせてきたその人が実の母を死なせた人だったなんて…。
笑っちゃうだろ…可笑しくて涙も出やしない…。 」
ノエルは西沢にかける言葉も見つからなくて項垂れた。
扉の向こうから滝川が声をかけた。
「紫苑…一応今日はこれでおひらきにした。
祥さんたちももう帰ったし…亮くんも今日は有さんのことが心配だから一緒に帰るってさ。
僕も明日から泊りがけで遠出しなきゃならないんでこれで帰るけど…三日くらいで戻ってくるよ。
ノエル…紫苑を頼むぜ…。 」
滝川に言われてノエルはただ…うん…とだけ答えた。
どうしてあげたら良いのか分からなかったけれど…。
じゃあな…と言って滝川も帰って行った。
マンションの部屋にふたりだけが残された。
「ノエル…きみも…帰りなさい…。 今日は仕事もなし…。 」
西沢はそう言って笑うとノエルを膝から降ろした。
立ち上がって出て行こうとする西沢にノエルはやっと言葉をかけた。
「僕じゃだめ? 」
怪訝そうな顔をして西沢が振り返った。
「僕…ずっと応援してた…。 紫苑さんが元気で頑張れるようにって…。
初めて会った日に紫苑さんがそう頼んだんだよ…だからずっと…。
今日は滝川先生も…輝さんも居ない…。
だから…傍に居てあげたいんだけど…僕じゃだめ?
いつもみたいに泊めて欲しいっていう意味じゃないよ…。 」
ノエルは真剣な眼で西沢を見た。
僕じゃだめ…って言われてもなぁ…西沢は困惑したように頭を掻いた。
次回へ