2015年4月20日
曇り空でもあり、高千穂の九州山塊越えの疲れを取るために豊後竹田に1日滞在した。
街をポタリングしていると豊後竹田を治めていた岡藩の武家屋敷があつた。
初代藩主は文禄3年(1594年)に播州茨木から秀吉の命で入った中川秀成(ヒデシゲ)で、多くのキリシタンを連れてきたが後に激しい弾圧を受けた。
《「切腹の間」の天井》
武家屋敷通りで「切腹の間のある北條家」の案内板が目に入った。怖いもの見たさで訪ねたつもりが間違って隣の家だった。
結果的には北條家とじっ懇の中学の校長をされていた方と巡り会い、ご丁寧な案内をいただいた。
北條家は中川秀成にお供して伊豆から来た北條政右衛門が始まりという。
娘が八代目岡藩主の側室となり、その末裔のおばぁさんが〝切腹の間〟のある家に一人で住まわれていた。
「その時の備えで作った床の間であり、実際に切腹が行わてはおりません」とにこやかに笑って答えられ、こちらも肩の力がスッと抜けた。
切腹の間は写真のように天井の桟が床の間方向に向いているのが特徴という。
《北條政右衛門》
その床の間に北條政右衛門の肖像画があった。近くの刑場で行われる隠れキリシタンの処刑を屋敷の裏山から複雑な思いで見守っていたと伝わっている。
隠れキリシタンの洞窟礼拝堂。見つからないよう鬱蒼とした林の中に作られたという。内部に石に刻まれたお札のようなものが残っていた。
滝廉太郎の「荒城の月」のモデルになった高城へ行ってみた。
岡城という城名は大友氏一族の分家の志賀貞朝によって拡張された際に付けられたとある。
中川秀成が入城後に3年がかりで大規模な修築が行われたが、明治維新の廃城令によって取り壊され石垣のみが残されている。
「荒城の月」は土井晩翠が中学唱歌のために作詞した「荒城月」のメロディー公募の作品。
幼少期を竹田で過ごした土井晩翠に、荒れ果てた城を照らす月あかりがどのように映ったのだろうか。
2015年4月21日
一夜明けて快晴。この旅は晴れたり降ったりが交互に来た。
4月6日に福岡をスタートし、呼子、平戸、長崎、島原、天草、高千穂とキリシタンの歴史を感じ、高千穂の日本建国神話の郷を巡った旅も今日のゴールの別府で終了だ。
豊後高田から大分方向に走ると大野市に「原尻の滝」がある。
横幅があって、“東洋のナイアガラ”と呼ばれている。
大分県を東西に横切り別府湾へ流れ込む大野川水系の支流、緒方川が遙か昔の阿蘇山の大噴火で出来た溶岩台地を長い年月をかけて削り落として誕生した景観という。
周りにチューリップ畑が広がっていた。季節にはさぞかし美しく映えるだろう。
別府市内到着。竹田からここまで50Km。やや下りののんびりしたツーリングが気持ち良かった。九州は豚骨ラーメンがサイコー!
市街地から丘を登った先にあった宿の洒落たY.Hとそこからの別府の湯煙。
宿の若いマスターに湯巡りについて尋ねると、夕食の準備を中断して、チラシの裏に30分ほどの時間をかけて、丁寧な地図を書いて説明してくれた。
鉄輪温泉は〝別府八湯〟のひとつは湯治場という。
荷ほどきをして、早速、湯巡りへ。
「血の池地獄」
地下の高温、高圧で化学反応を起こし生じた酸化鉄、酸化マグネシウム等を含んだ赤い熱泥が地層から噴出、堆積して池の一面が赤く染まっている。
宿の周辺はには銭湯のような温泉がいくつもあった。
料金は備え付けの賽銭箱のようなものに任意で投入する。300円という。
蒸し湯は一遍上人が開湯したとか。
愛好者で組合を作り運営していた。
銭湯温泉でチャリ旅の若者に出会った。
そして間もなく、〝スーパーボランティア〟の尾畠春夫さん(この時78歳)にバッタリ出会った。
友人と銭湯に来た帰りで、公園で休んでいた私の方に近づいてきていろいろな話しを聞かせていただいた。
10年前にかねての予定どおり魚屋を畳み、3年かけて日本縦断徒歩旅行をしたという。
全て野宿。野菜は買わずに野草を食べたそう。東北で半身不随のおばぁさんに助けられた恩返しで延べ500日、復興支援ボランテイを続けていた。
一期一会が繋がる旅の話に湯冷ましも忘れて聞き入っていた。
フォークシンガー岡林信康が丸刈りしたような風貌で「近いうちに北海道一周をする。」と日焼けした顔でいきいきと語ってくれた。
その後、山口県、北海道でも行方不明の坊やを発見している。
旅の締めくくりに素晴らしい旅人に出会った。
4月6日に福岡を出発し、唐津、呼子、平戸、長崎、島原、天草とキリシタンの歴史に触れ、南阿蘇から高千穂の日本建国神話の古里を巡ったおよそ850Kmの旅を終えて福岡までバス輪行した。
(終わり)
※次は2018年の台湾一周800Kmを気の向くまま綴ってみます。親切にして貰った人々が中国との関係で心配です。