演奏会に殆ど行かなくなって久しいので大ホールの実情は詳しくないのだが、東京ではやはりサントリーホールが使われているのだろう。最初にはっきり言っておく方がよいと思う。このホールは失敗作である。音楽評論家を名乗る人は大勢いるのにそれを言う人は少ない。演奏家も表だっては言わないのか、耳に入ってくることはあまりない。
何が駄目なのかを言葉で表すのは難しいのだが。
とにもかくにも、音の焦点がなくなる。この一点に尽きる。余韻はあるが、響きはない。こういう会場は響きを本当に持っている奏者には不利だが、持っていない奏者には有利かも知れない、一種のカラオケ効果のために。
実例を挙げておく。音楽を言葉で表す愚は承知の上で。
モーリス・アンドレはまれに見るトランペット奏者であった。吉田秀和さんがトランペットの音は○○の形をしているだったか、非常にうまい表現をしていた。うまい表現だと思ったことだけ覚えていて、○○を忘れてしまったばかりか、全部忘れてしまっている!肝腎の表現をすっかり忘れるなんて、お粗末の極みだが仕方ない。とにかくアンドレの音は果実のように、手を伸ばせば触れることができるのでは、と感じるものだった。
彼以後も様々のキャッチフレーズとともに何人もの奏者が現れたがアンドレのような人はいない。
帰国直後、耳はヨーロッパの音に飢えていた。その時アンドレが来日し、僕は喜び勇んでサントリーホールに聴きに行った。
この時ほど落胆したことはなかった。帰国したことを後悔したほどである。アンドレは決して悪くなかった。誰が聴いても立派な演奏ぶりだったのだ。
でも手を伸ばせば触ることができそうな、表面張力で丸く形成されているかのような、形のある音は耳にすることが出来なかった。この魅力こそがアンドレを他の奏者と区別する一番大きな要因だったにもかかわらず。その代わり、何となく上質そうな「サウンド」が空間に漂った。
その後、チェリビダッケとミュンヘン・フィルを聴きに行ったときも同じであった。この時はその2.3日前に同じチェリビダッケとミュンヘン・フィルを松戸の聖徳学園のホールで聴いたばかりだったから余計にその違いが実感できた。
聖徳学園のホールはお世辞にもよい響きとはいえない。そこで演奏会を聴いたのは後にも先にもこの時限りだったから、もう記憶は薄れているが、貧弱な、残響のないホールだったと思う。
その代わり、ミュンヘン・フィルの音が(というよりチェリビダッケの耳が)消える瞬間まで息苦しいような密度を保っているのが、なぞるように聴き取れた。
僕がチェリビダッケをどう評価しているかということとは違う問題である。しかし演奏者が音楽のどこに耳を傾けているか、が分からずに評価もしようがないではないか。
情けない話であるが、残響がただあるよりは、むしろ痩せたホールの方が演奏者の意図は、意図だけは分かるのである。この続きを近いうちに書くつもりだ。
僕としてはサントリーホールの音楽会はご免こうむる。ビアホールにでもするとよいと思う。