神奈川県立音楽堂に新築計画があったことは書いた。保存を訴える署名運動をしたことも書いた。そのとき非常に感じるところがあったので、それについても書いておきたい。
この計画自体は21世紀文化大構想だったか、そんなご大層な文言が並ぶ企画の中から出てきたものだったらしい。噂では建築推進の先頭には作曲家の團伊久磨さんがいるということだった。
それはちっとも構わない。ただ、ホールの音響と設計について、あまりにナイーブな考えの人が多くて危険だと、そのときはじめて思った。
県立音楽堂は前川國男さんの設計である。前川さんは東京文化会館の設計者でもあるから、良いホールを造る勘を持っていたのだ。設計したものは建築される、建築されたホールは聴かれなければならぬ。
ホールは科学的な設計を超えるのである。ということは、心積もりよりも出来の良い場合もあれば、悪いものもある。これは避けがたい。前川さんの設計したホールがどれもが優れているわけではきっとあるまい。県立音楽堂は嬉しい偶然のたまものだといっても失礼にはならないと思う。
同時に、彼の勘は当たることが多かったのも事実なのである。
いわば偶然が与えてくれた素晴らしい音響、だれもが認めている音響をあっさり捨て去って、新たに現代の最新設計と技術で「良い」ホールを造りあげるというあまりの単純な信念?に僕はあきれかえった。こういうのを現代人の傲慢というのだと思う。
計算さえ合っていればできる、なんという軽薄さだ。そもそも全ての条件を計算したというのか。計算が可能だとしても、どの数値を取り上げるかは結局の処感覚に頼るではないか。その感覚は経験で養う以外あるまい。ホールの響きの感覚はホールが養ってくれる。ほかの何ものも手伝えない。それを肝に銘じておくべきである。
ためしにWikipediaでも見てみればよい。東京文化会館の項に、改修工事が終わりサントリーホールと同等の音響を持つようになった云々とある。だれが書き込んだか知らないけれど、音楽を知らない人はこのように頭でものを聴くようになる。僕はただ茫然と見守るばかりである。
音楽を知らない人とは素人とは限るまい。音楽を愛さない人は音楽についてうんちくを傾ける。僕はそれに抗議するだけの話である。ひところあるピアノ製造メーカーの広告のうたい文句は「耳をすませば喝采がきこえる」であった。これは現代人の大半の心の動きを的確に表現していたと思う。みんな、ただ喝采をしたいのだ。そして今日の演奏者はそれを求めるのだ。
それさえ満足させてくれるのならば、座席は心地よく、エントランスもおしゃれで、公演後しゃれた店もあるホール以外の何を望むのだ、と言わんばかりだ。