季節はずれのインテルメッツォという表題について。
時節からはずれた、という点では、所謂クラシック音楽がそもそもそうであろうし、その音楽界の中でも、僕は時節からはずれていると認識している。
それ以上の意味はない。はずれていることを嘆いているのではさらさらない。
インテルメッツォは間奏曲ということで、これまた拝借した意味はない。ちょっとした駄文くらいの気持ちで付けた。音楽用語でいうならばバガテルというところだろう。でも季節はずれのバガテルでは語呂が悪いでしょう。季節はずれのバカデルみたいだし。
ニーチェに「季節はずれの考察」という作品があるが、これとも別に関係がない。まったくないと言ったら嘘になるな。ちょっと意識したな。ニーチェの作品は「反時代的考察」というのが一般だ。その中には「バイロイトにおけるリヒャルト・ワーグナー」という論文がある。これに限ったことではない、音楽家はワーグナーを知っていればニーチェを分かりやすい。分からないところはとばして読めばよい。
僕は密かに思うのだが(ちっとも密かではないな)それが「分かる」ことへの王道ではないだろうか。邪道だという人がいれば邪道でもよいさ。その時には今度はおおっぴらに「分からないところはとばして読む。それが分かることへの邪道だ」というまでのこと。
そうそう、また脱線した。で、「反時代的インテルメッツォ」ではこれもピンとこないでしょう。そこで季節はずれの、とした次第。ニーチェの場合は「反時代・・」の方が本文のテンションの高さ、内容からして合っている。
要するに僕がいかにも季節はずれだと自認しているのだ。しかし同時に時節に合うことばかり考える奴は時に中すことはあるまい、との自負の念も込められている。別に君子でも大人(たいじん)でもないけれど。
念のために付け加えておけば、これは孔子の「君子の中庸は時に中す」と言っていることを指す。
若いころ、父親が「中庸の徳」だと説教するのを、ふざけるな、中庸の徳とはそんな生やさしいものではない、と反撥した。今でもそう思う。これは僕がピアノという楽器を通じて強烈に思い知ったことでもある。これについては、近いうちに書く。
父親が自説を主張する根拠というのは(その理解から彼がどのような感情を世の中に対し持ったかは別の問題だ、彼は彼なりに深く思いをいたすところがあったのだろう)唯一、自分のころは僕の時代より論語を習ったという事実に拠ってである。たくさん習ってそれが深い認識になるなら、パーティーなんぞでより多くの人とぺちゃくちゃ喋った奴が人間について、より深く洞察するのだということになるではないか。
こういった思いこみは年長者が年少者に対しうっかり持ってしまいやすいだろう。思い当たる人もいるに違いない。
先日もある老人ホームで79歳の男が76歳の男を怪我させた(歳はちょっと怪しいが、およそこのくらいの開きだ)事件があった。「この若造が」と叫んで襲ったそうである。大笑いした。こんな事件は吉田兼好(秀和ではないよ)だったら徒然草に取り上げたかもしれないと、楽しかった。いや、被害にあった方にはもちろん心からお気の毒と思う。
脱線しっぱなしで何が何だか分からないが、このままにしておく。