季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

日焼けは体に悪い

2010年02月06日 | その他
子供の時分からお日様に当たると真っ赤になっていた。プールサイドでこんがり黒光りする人たちを見て、なぜ僕は赤くなるのだろうと思っていた。きっと恥かしがりやだったのであろう。

僕は生まれは佐賀県で、育ちは悪い、ではなかった、育ちは川崎なのである。

それが10年弱一度も帰国することなくドイツで暮らすことになった。27歳から(多分)36歳まで。思えば人生の一番元気な時期をずっとヨーローッパで過ごしたことになる。

北ドイツは、友人からの便りでは当時と気候が変わったようであるが、僕のいた当時は一年中セーターをしまうことなく過ごした。真夏でも13度以下の日が続く年が何度もあった。13度を割り込むと暖房を入れる義務が大家にはあるらしく、何度も入れた記憶がある。

ハンブルク人は雨傘を持って生まれてくるといわれるほど、小糠雨の天気が続く。雨傘を持って生まれてくるわりには傘をささぬことが多い。霧吹きで水を吹きかけたような雨が多いから、傘をさすのも何となく面倒なのだ。

一時期4戸からなる集合住宅に住んでいた。1階に2戸2階に2戸という小さな住まいだ。通路を挟んだ向かいに90歳のおばあさんが住んでいた。ある日、やはり傘をさすのは面倒だと思うような日に偶然濡れながら出かける後姿をみて気の毒に思った。理由はないが、人生は過酷であるとその後姿は語っていた。

おばあさんはそのまま帰宅することはなかった。後日遺品を整理に来た息子さんから亡くなったことを聞いた。

ハンブルクの雨を思い出すとおばあさんの後姿を思い出す。

ドイツ滞在も5年目くらいから人並みに夏の休暇を取るようになった。ある夏、面倒くさがらずに調べれば明確に分かる、第1回目の世界陸上が開催された年だ、いつもの山奥ではなく(09年10月13日付けで好奇心と題した記事の村である)たまには湖のある所へ、とチロル地方のとある山村へ出かけた。

雨ばかりの北ドイツから南下するとじつに面白い。ハノーヴァー辺りまで南下すると、低く低く垂れ込めていた雲が目立って遠のく。鬱陶しい気分は幾分減る。フランクフルトまで行けば薄曇程度で、雲の間から水色の空も見える。そのままバーゼルまで南下しても、あるいはチロルに向かっても、そこまで行くと青空は濃いブルーになり、乾いた空気を突き通してくる太陽光線の力を肌で感じる。

目的地に着くと、荷を解くのももどかしく外に飛び出した。僕は太陽族ではないけれど、久しぶりに浴びる強い陽射しを子供のように楽しんだ。上半身は裸になり時折小川や湖に浸かって散歩をした。

誰でも陽に焼けて皮がむけるでしょう。僕はそれが激しい。ふと気が付くと上体が火ぶくれしている。シャワーがしみるだろうなあ、と急いで上着を着た。

案の定、夜になるとすでに水ぶくれが潰れて、シャワーはことのほか痛かった。

それでもこんな経験は大抵の人がしているはずである。僕も何度も経験していたからただ沁みるのをこらえてへらへらしていた。

数日後ハンブルクに帰って、どうも様子がおかしいと思った。いつまでも体液がにじみ出る。非常なかゆみも出てきた。蕁麻疹らしい。

医者に行ったらかなりの火傷をしている、内蔵までやられているという。何やらわけが分からぬまま静脈から点滴を受けることになった。

「薬が入ると心臓が熱くなります」といわれてその瞬間を待っていると、いきなり心臓に火を付けられたようにカアッと熱くなった。心臓に火を付けられた経験はないが、きっとこんな感じなのだろう。

治療が済んでから医者が「あなたのように心臓が強い人はめずらしい」と言う。なんだ、では普通の人は焼け死んでしまうではないか。それを早く言ってくれ。

この点滴治療を何回か施されて症状は軽くなっていった。なんでも毎年夏休みにはこうした火傷で数人が死亡するのだという。危ないところだった。

これには後日談まである。