季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

わざ

2010年02月26日 | 音楽
非常に気になることを。

ピアノを熱心に習う子供たちがあまりに不自然な動きや顔をすること。

いったいこれはどうしたことか。会場で「見て」いる人たちはきっと上手そうな気がしてくるのだろう。審査員もね。

冗談ではなくひとつ目隠しして審査をしてご覧と言いたくなる。

動画サイトで子供や若い子がコンクールで弾いているのを見て絶句した。とくに連弾が酷い。おそらく弾くことに加えて息を合わせる、という「見方」が加わるせいだろう。もうめったやたらに首を回す、相手の顔を覗き込む。ああ、こんなに小さいのに首が凝るのかい、可哀想にねえといいたくなる。

こんな姿を見て胸が悪くならぬ人は一体いるのか?いるんだろうな、成績を収めているところをみると。

試しに目を瞑って聴いてご覧なさい、何の変哲もない、ラジオ体操以下の演奏だ。

演奏の質が悪いと難じているのではない。子供相手にそんなむごいことをする奴は好かない。

こんな「やらせ」が通用すると思わせる大人は良くないと言いたいだけさ。ピアノだけに止まらないから気の毒としか言いようがない。

この自分たちから醸しだされるにいたった演出過剰はどこかで見たように思う。独裁者国家での子供たちの自動人形的演出過剰(これまた凄い日本語だ)を笑うことができない。

でも、合唱コンクールなどで見かける、大人が押し付けたとしか言いようのないあざとさもじつによく似ている。

楽しいでしょう、さあこうやってご覧よ、ほーら楽しい!ご褒美によい点をあげましょうねぇ、そんな声しか聞こえてこない。このわざとらしさがピアノに関してだけだったらまだ救われるのだが。

「いじめられている人がいたらどうしなければいけないでしょう?」「ハイ、助けてあげなければいけません」「そうですね。正しいです」

ああ、子供は本来どれほど残酷であり、同時に正義感にも溢れているか。それは本人にも意識されていない。それで構わない。むしろそのままにしておくほうが良い。わざわざ偽善を植えつける必要はない。

太宰の「人間失格」で主人公が受けを狙って失敗を演じたとき、クラスの中でただひとり知恵遅れの子がそれを見抜いてそっと寄ってきて「わざ」と囁く。

いたるところに「わざ」がはびこる。音楽の世界にまでこの「わざ」は巣食っている。正直に聴いてみたまえ、と言えば「いや、演奏は見た目にも美しくなければならない」という高説を説かれる始末だ。

反問する。あなたたちは本当に見た目で分からないのか、その動作が心から出たものなのか、恣意的に付け加えられたものなのか。

僕が子供に対して言っているのだと思ってくれるな、繰り返すが。

ここまで書いたら、むかし連弾で上記と同じコンクールで上位入賞をしたという人が(偶然)いた。はたして、ぜんぶ先生の振り付けによってやっていた、嫌で嫌でたまらなかったということである。入賞してもちっとも嬉しくなかったとも。