季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

久々にサッカーのことを

2010年02月14日 | スポーツ
サッカー日本代表は僕の予想を裏切って?南アフリカ大会への出場権を得た。

それは嬉しいことではあるが、長いサッカーファンとして看過できないことがある。

現在東アジア選手権という大会が開かれている。南アフリカ大会まであと3,4ヶ月しかないというのに、ワールドカップ予選中に僕が書いた不安材料は何ひとつ解消されていない。

それどころか、ますます日本のサッカーの力は低下しつつあるように思われる。言うまでもないけれど僕は単なるサッカー愛好家に過ぎない。僕が目をつけるのはプレー自体もさることながら、それをメディアが如何に取り上げるかという点である。

香港に(香港の力量は世界レベルからするとアマチュアである)やっとの思いで勝った後「香港に勝って(これまでの不振の)鬱憤晴らし」「香港に快勝」という見出しが躍る。スタンドの観客からは勝利監督インタビューだというのにブーイングが起こった。それは香港戦に対しての正当な評価だと僕も思った。それほどひどかった。

報道と一般人との反応がこれほど乖離するのは良くないのである。繰り返すが、古くからのファンである僕は潮が退くように人の心がサッカーから離れていくのではないかと心配する。

メディアは必死になって「盛り上げ」ようと標語を作り話題を提供しているが、肝腎の批評精神がない。

「さむらい」なんて軽々しく言うものではないのである。弱いことを認めて、それを少しでも改善するように努めるべきところを、虚飾の文言を振り回す。こんなみっともないことはないではないか。

こんな苦言もサッカーに限ったことであればサッカーに関心のない人にはどうでも良いことなのだ。でも本当にそうか?

僕がサッカー自体よりもそれをメディアがどう扱うかに関心があるというのは、一時が万事同じことだと痛感するからである。

音楽の世界も、産業界も、何から何まで同心円を描いている。鍵盤の帝王や女神や美人、プリンス(今はプリウスだけどね)等々、張子の虎とはこういうものだ見本市状態(すご日本語を駆使したくなるよ、まったく)、それを演出しようと苦心惨憺しているのはメディアではないか。

若くて才能がなくはない人を散々おだてておいて梯子を外すような仕打ちをしているのはいったい誰だ?

なぜありのままを報道ひとつできないのだろう?スポーツはそれ自体ですでに面白いものである。少なくとも面白いと感じる人にとっては。

それによけいな演出を加えるとどうなるか。心ある人はいっぺんに興ざめするだろう。ちょっと前には取ることが難しかったチケットなのに、やたらに空席が目立ったのはそれを証明している。

岡田という監督を選んだことに対しての僕の感想はすでに書いたような気がする。チームに対しても書いたことがある。チームの和ということを選手たちも勘違いしていると思う。それに関しては「西鉄ライオンズ」という題で書いた。(2008年5月27日)

つまりチームの中でも批評がなされていない。課題が見つかったという言葉はよく聞かれるが、それが何で原因はどこにあるかを明言する選手は少ないようだ。仮に誰かがそれをすると「チーム内に不協和」と報道される。

これでは自主性が育つわけがないではないか。サッカーが国民性に合わないのではという意見にいたっては(これは成績が上がらないときによく聞く意見だ)そんなことを言って何になる、と言いたい。それとも(これも自嘲的に言われるが)民主主義は日本の国民性に合わないとでもいうのだろうか。

専門家は11人のシステムについて意見を言い合っているが、僕のような長年の素人にはそれは大きな意味を持たないと極論したい気持ちがある。あるシステムが本当に万全ならばとっくにそのシステムが世界を席巻しているさ。

もっとはるかに根深い問題があると音楽家は直感しているのさ。