季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ピッチ

2014年06月24日 | 音楽
昔のピッチは現在よりもほぼ半音低かった。これはよく知られた事実である。カンマートーンといいます。

音楽の世界に(学生のレベルまでというくらいの意味です)音楽史的考察が入ってき始めたのは僕が子供のころではないだろうか。

しかしなにぶん所謂音楽界というものにまったく関心を持たずに暮らしていたので、今にして思えばホントに牧歌的に過ごしていたのである。

大学にはついでのように入学したし、授業にも殆んど顔を出さずに過ごした。成績表は自らカフカ全集(可と不可しか見当たらないという意味だ)と認める有様だった。

音楽自体は僕の生きている意味そのものであったから、カフカだろうがシューマン(秀マン)だろうが意に介さなかった。今ではそれが良かったと思っている。

歴史的事実を知った人たちのうち、その意味を探った人はいったい何人いるだろう?今では誰でも昔のハ短調は今のロ短調だと知っているけれど、では「運命」はハ短調の代表的作品だという人に対し「いや、それは意味がない。だって昔のピッチで演奏したらロ短調だから」と言ったら?

オルガニストならだれでも知っているが、昔のピッチは今より半音高い所もあったのです。カンマートーンに対してコアトーンといいます。これらを単なる歴史的知識としてではなく音楽の中で生きたものとしてとらえたらいったい何を意味するか。

先達てテレマンの調性論について論じた文章を雑誌で読んだ。努力に敬意は払うが、やはり根本的な質問に迫ってはおらずがっかりした。僕はテレマンの論を知らなかったけれど、あらゆる調を形容詞で論じたところで何も生じない。今のピッチは違うではないか、と言われたらぐうの音も出まい。

各人が本気で考える価値がある難問だろう。調性感とは絵空事であるか?