季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ショスタコーヴィチを巡って

2015年05月15日 | 音楽
レッスンでショスタコーヴィチを見る。この人の作品は好きである。ソビエトの 作曲家というよりロシアの作曲家と言いたい。

その昔自伝が出た時、大変話題になったのを覚えている人も多いだろう。何と言ってもソビエト当局から作風を変えるよう指導があったりしたのだから人も注目したのである。

しかし人が躓くのはまさにその点であ る。自動的に、彼の作品は彼の意思を反 映していないという感想を伴ってしまう。

人の表現への意思が当局によって制限されることは、当然ながらあってはならない。ただ、それは作品と本質的には無関係なのである。

ハイドンはエステルハーツィの注文に応じて作曲したが、では彼の作品は真実味の欠けた作品とみなされるか?

彼がもっと自由に作曲出来たならばもっと「本物の」作品を創り上げただろうか?誰も分からない。違った作品が出来上がったのはもちろんだが、それはそれだけのことだ。

自由という言葉は弱い精神には妖しい魅力があるように映るのだろうか?

ハイドンにせよ、ショスタコーヴィチにせよ、彼らの意思に反する制約の中で自由に作曲しているのだ。

少し考えてみても、あらゆる形式は一種の制約だとみなせる。

僕は当局の介入を肯定している訳ではない。断るまでもないが、必ず誤解するおっちょこちょいが一定数いるので念を押しておく。