どこかの小学校で豚を飼っていた。花子だったかな、名前までつけてね。
担任が、子供たちに命の大切さを分かってもらおうとない知恵を絞って考えたのだ。子供たちはその豚を甲斐甲斐しく世話して、花ちゃん、花ちゃんと可愛がっていた。
子供たちはいやでも歳をとる。6年生が終われば卒業するのである。担任は当然そこで教育的成果が発揮されると確信していたのだろう。
学級会が開かれ、花子の処遇について、討論がなされた。最後に多数決により、花子は精肉業者に引き取られることになった。
別れを悲しむ子供たち。何も知らずに運ばれていく花子。子供たちは命の大切さを身をもって知った。その姿にまた感銘を受けるテレビの前の人々。
これはグロテスクだ、と僕は断じておく。
豚肉は大好きだ。旨い。ハムにもなる。しかし僕は、場に行こうとは思わない。子供を行かせようとも思わない。それは特別なことではないだろう。たいていの人がそうだろう。それとも僕は命の大切さを知らないというのか。
僕たちは何の因果か、他の動物を食して生きているが、少なくとも現在食卓に並ぶ肉は、一種抽象的な「肉」という食物である。
昔の田舎では、鶏や豚を飼うのが当たり前だった。僕もそういった村で育ったのだ。そこでは、夕食のために鶏を絞めることが日常だった。僕にいたっては、今でこそウサギを2匹飼っているけれども、ご幼少のころはウサギの毛皮で作った服まで着せられていたという。ただし、僕はそれらの場に居合わせたことはない。農村の子供でも、その場に居合わせた子は、そう多くはないだろう。きっと大人がそれなりの配慮をしていたものと考えられる。あるいは無頓着なこともあったかもしれない。しかし、すべて過ぎ去った時代のことだ。
現代の生活の中で、わざわざ名前まで付け飼育したら、それはペットというのではないか。ペットを食うか、食わないかを子供に議論させないと命について教えられないというのかい。
いいんだよ、俺は旨けりゃなんでもいいさ、という子だっているだろう。その子に合わせて教育するならば、しかし命の教育なんてお題目は消し飛ぶではないか。そもそも命の大切さなんて教えるものではない。そんなものは感受性とともに、自然にある。
教室中で可愛がっていたというからには、多くの子供たちが愛着を持っていたのだろう。そこにディベートとやらで、何やらかにやら、いかがわしい理屈を教え込んで、何人かの子供がやむなし、に転向したのだろう。だいいち他にどんな選択肢があるというのだろう。教師は最初からこの結論に導きたかったのだと僕は思ってしまう。
生徒の飼い犬を連れてきて解剖でもしてみればいいじゃないか。「悲しいね、もうこの子は帰ってこないんだよ」とみんなで泣いてみればいいじゃないか。生きることの大切さをそうやって教えてみろ。馬鹿につける薬はない。
生命の不思議さ、尊さを教えたいなら教えるが良いさ。しかしそのためにこのような手の込んだことをしなければならないのだろうか。何と心ない教師か。それを「美談」として取り上げるテレビ局もテレビ局だ。感心しない話だが、昔はみんなそうやっていたのさ、と訳知り顔をする奴もする奴だ。
昔はこうだった式の議論はたくさんだ。それならば、日本もついこの間までは「間引き」といって子供を殺していたのだ、親がね。そういう生活が現実にあったのだ。一応表向きには貧しさのあまりということにはなっているが、実情は少し異なっていたようだ。だからといって、今でも子供を殺す親がいるのは不思議はない・・・なんていう論法はなりたたぬだろう。
動物に接することで優しい心を育む、というお題目も、「花子」を売るか否かを通して生命の尊さを教えるというお題目も、なんともうそ臭い。片方のセンチメンタルなうそ臭さがもう片方の、正義を気取った残忍さを生む。
この教師は自分の教育成果に満足してぐっすりと眠ったであろう。こういうのを人情がないという。感銘を受けて真似する教師が出ないことを祈る。
いかにも教育的配慮がありそうに見えるが、その実、驚くべき不感症に満ちている。以前にも書いたけれど、僕は動物が好き、ただそれだけだ。それは僕の感受性を保障もしないし、僕が優しい人間だということも示さない。
僕は子供に同情する。そして、この手の「心」や「教育的配慮」に嫌悪感を持つ。
担任が、子供たちに命の大切さを分かってもらおうとない知恵を絞って考えたのだ。子供たちはその豚を甲斐甲斐しく世話して、花ちゃん、花ちゃんと可愛がっていた。
子供たちはいやでも歳をとる。6年生が終われば卒業するのである。担任は当然そこで教育的成果が発揮されると確信していたのだろう。
学級会が開かれ、花子の処遇について、討論がなされた。最後に多数決により、花子は精肉業者に引き取られることになった。
別れを悲しむ子供たち。何も知らずに運ばれていく花子。子供たちは命の大切さを身をもって知った。その姿にまた感銘を受けるテレビの前の人々。
これはグロテスクだ、と僕は断じておく。
豚肉は大好きだ。旨い。ハムにもなる。しかし僕は、場に行こうとは思わない。子供を行かせようとも思わない。それは特別なことではないだろう。たいていの人がそうだろう。それとも僕は命の大切さを知らないというのか。
僕たちは何の因果か、他の動物を食して生きているが、少なくとも現在食卓に並ぶ肉は、一種抽象的な「肉」という食物である。
昔の田舎では、鶏や豚を飼うのが当たり前だった。僕もそういった村で育ったのだ。そこでは、夕食のために鶏を絞めることが日常だった。僕にいたっては、今でこそウサギを2匹飼っているけれども、ご幼少のころはウサギの毛皮で作った服まで着せられていたという。ただし、僕はそれらの場に居合わせたことはない。農村の子供でも、その場に居合わせた子は、そう多くはないだろう。きっと大人がそれなりの配慮をしていたものと考えられる。あるいは無頓着なこともあったかもしれない。しかし、すべて過ぎ去った時代のことだ。
現代の生活の中で、わざわざ名前まで付け飼育したら、それはペットというのではないか。ペットを食うか、食わないかを子供に議論させないと命について教えられないというのかい。
いいんだよ、俺は旨けりゃなんでもいいさ、という子だっているだろう。その子に合わせて教育するならば、しかし命の教育なんてお題目は消し飛ぶではないか。そもそも命の大切さなんて教えるものではない。そんなものは感受性とともに、自然にある。
教室中で可愛がっていたというからには、多くの子供たちが愛着を持っていたのだろう。そこにディベートとやらで、何やらかにやら、いかがわしい理屈を教え込んで、何人かの子供がやむなし、に転向したのだろう。だいいち他にどんな選択肢があるというのだろう。教師は最初からこの結論に導きたかったのだと僕は思ってしまう。
生徒の飼い犬を連れてきて解剖でもしてみればいいじゃないか。「悲しいね、もうこの子は帰ってこないんだよ」とみんなで泣いてみればいいじゃないか。生きることの大切さをそうやって教えてみろ。馬鹿につける薬はない。
生命の不思議さ、尊さを教えたいなら教えるが良いさ。しかしそのためにこのような手の込んだことをしなければならないのだろうか。何と心ない教師か。それを「美談」として取り上げるテレビ局もテレビ局だ。感心しない話だが、昔はみんなそうやっていたのさ、と訳知り顔をする奴もする奴だ。
昔はこうだった式の議論はたくさんだ。それならば、日本もついこの間までは「間引き」といって子供を殺していたのだ、親がね。そういう生活が現実にあったのだ。一応表向きには貧しさのあまりということにはなっているが、実情は少し異なっていたようだ。だからといって、今でも子供を殺す親がいるのは不思議はない・・・なんていう論法はなりたたぬだろう。
動物に接することで優しい心を育む、というお題目も、「花子」を売るか否かを通して生命の尊さを教えるというお題目も、なんともうそ臭い。片方のセンチメンタルなうそ臭さがもう片方の、正義を気取った残忍さを生む。
この教師は自分の教育成果に満足してぐっすりと眠ったであろう。こういうのを人情がないという。感銘を受けて真似する教師が出ないことを祈る。
いかにも教育的配慮がありそうに見えるが、その実、驚くべき不感症に満ちている。以前にも書いたけれど、僕は動物が好き、ただそれだけだ。それは僕の感受性を保障もしないし、僕が優しい人間だということも示さない。
僕は子供に同情する。そして、この手の「心」や「教育的配慮」に嫌悪感を持つ。
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