前回の書きようでは、録音から実音への判断が一足飛びのような印象を与えたかもしれない。もちろんそうではない。
大編成のオーケストラも、いろいろ聴くうちに,例えばバンベルク交響楽団はたしかにドイツ的な響をもっているが、決して一流とまではいかない、とはっきり聴こえてくる。
ウィーンフィルも、ウィーンフィルだと思わせてくれるのは、せいぜいニューイヤーコンサートくらいだと分かってしまう。チェリビダッケがウィーンフィルをメッツォフォルテだと罵るのも得心がいく。せいぜいカール・ベームのころまでだろう。まぁベームもチェリビダッケにかかってはケチョンケチョンだが。
小編成のオーケストラでは、すでに書いたけれどミュンヒンガーを聴いたことが決定的だった。相前後してルツェルンの団体やパイヤール室内管弦楽団を聴いて響きの多様さに(多様さだけだよ、多様イコール感動ではないよ)驚いた。
パイヤールの音は軽く、香水の香りのように頭の後ろからやってきた。僕は、これはフランスではない、おフランスだと思ったものだ。なぜそう聴こえたのか説明はできない。カペーカルテットのような緊密な演奏に(もちろんレコードで)親しんだ耳にはそうとしか聴こえなかった。
ミュンヒンガーの音は、実に厚みがあって柔らかかった。しかし世評ではカール・リヒターの音を厚みがある、という。
あるいはレニングラードフィル(今のザンクト・ペテルブルグフィル)の音を重厚で厚みがあると形容する。しかし厚みというものは透明感を前提にしているはずだ。透明度の高い湖ほど底知れぬ「水の厚み」を感じるのと同様だ。レニングラードフィルの音から厚みを感じることはなかった。暑苦しくはあったが。透明度が全くなかったと言い直してもよい。
では透明感のある音とは?と定義づけに追われるばかりである。言葉は無力だといわざるをえない。
元に戻るが、貧弱なレコードの音に現実の音が重なって体験されて、音はより聴こえ易くなっていく。現実の音と書いたが、「原音」と題する記事ですでに書いたように、僕たちの耳は「現実の音」すべてを捉えているわけではない。響のある点に焦点を合わせるのだ。耳はその意味では頭脳そのものだといえる。
ただし誤解されるといけないから付け加えておく。それは所謂頭の良し悪しを意味しない。頭脳が働く方向のことをいっている。
焦点を合わせることを覚えたら、そこからは一種の技術なのである。
僕の場合はハンゼンの許で学ぶようになってから、ようやくゆっくりとピアノの音質が分かるようになった。それまで幾多のピアノの名人の音を聴いていても、自分とはかけ離れた質感でしかなかったものが、ある具体性をもった手応えとして感じるようになったとしか言えない。僕にとっては当時ピアノが一番縁遠い存在で、「理解」は一番遅くやってきた、という所以である。
ポリーニ、アルゲリッチ、アシュケナージ等をはじめ、国内の有名無名のピアノ弾きにしきりに感じた違和感、しかも自分もその一員であるという苦しい自覚、そこからゆっくりと離れていった。
すると他の楽器や歌声にも一層耳が届くようになる。あるいはこう言い直してもよい、レコードで聴いていた質感がより一層聴けるようになる、と。
具体的に名前を挙げると、エリー・アメリンクというソプラノの清潔な声が好きでずいぶん聴きに行ったものだ。今聴くと、清潔に感じた気持ちはまざまざと思い出すが、声は本当には響ききっていないこともはっきり聴こえる。
あるいは、先に挙げたカール・リヒター。最初の数分は圧倒されたものの、次第に乱雑な耳でしかないのだと分かってしまうと、急に熱が冷めたりした。
聴こえてしまうのは不幸なことかもしれない。気障にきこえそうだが。
それでもこう言っておく。もしもショパンの諸作品が、今日ショパンコンクールで弾かれるように初演されたならば、かれの作品は現在のような人気を博すことはなかったであろう。
実音を通じていっそう録音された音がわかるようになる、その連鎖はモデルとイデーの関係と同心円を描くようである。
大編成のオーケストラも、いろいろ聴くうちに,例えばバンベルク交響楽団はたしかにドイツ的な響をもっているが、決して一流とまではいかない、とはっきり聴こえてくる。
ウィーンフィルも、ウィーンフィルだと思わせてくれるのは、せいぜいニューイヤーコンサートくらいだと分かってしまう。チェリビダッケがウィーンフィルをメッツォフォルテだと罵るのも得心がいく。せいぜいカール・ベームのころまでだろう。まぁベームもチェリビダッケにかかってはケチョンケチョンだが。
小編成のオーケストラでは、すでに書いたけれどミュンヒンガーを聴いたことが決定的だった。相前後してルツェルンの団体やパイヤール室内管弦楽団を聴いて響きの多様さに(多様さだけだよ、多様イコール感動ではないよ)驚いた。
パイヤールの音は軽く、香水の香りのように頭の後ろからやってきた。僕は、これはフランスではない、おフランスだと思ったものだ。なぜそう聴こえたのか説明はできない。カペーカルテットのような緊密な演奏に(もちろんレコードで)親しんだ耳にはそうとしか聴こえなかった。
ミュンヒンガーの音は、実に厚みがあって柔らかかった。しかし世評ではカール・リヒターの音を厚みがある、という。
あるいはレニングラードフィル(今のザンクト・ペテルブルグフィル)の音を重厚で厚みがあると形容する。しかし厚みというものは透明感を前提にしているはずだ。透明度の高い湖ほど底知れぬ「水の厚み」を感じるのと同様だ。レニングラードフィルの音から厚みを感じることはなかった。暑苦しくはあったが。透明度が全くなかったと言い直してもよい。
では透明感のある音とは?と定義づけに追われるばかりである。言葉は無力だといわざるをえない。
元に戻るが、貧弱なレコードの音に現実の音が重なって体験されて、音はより聴こえ易くなっていく。現実の音と書いたが、「原音」と題する記事ですでに書いたように、僕たちの耳は「現実の音」すべてを捉えているわけではない。響のある点に焦点を合わせるのだ。耳はその意味では頭脳そのものだといえる。
ただし誤解されるといけないから付け加えておく。それは所謂頭の良し悪しを意味しない。頭脳が働く方向のことをいっている。
焦点を合わせることを覚えたら、そこからは一種の技術なのである。
僕の場合はハンゼンの許で学ぶようになってから、ようやくゆっくりとピアノの音質が分かるようになった。それまで幾多のピアノの名人の音を聴いていても、自分とはかけ離れた質感でしかなかったものが、ある具体性をもった手応えとして感じるようになったとしか言えない。僕にとっては当時ピアノが一番縁遠い存在で、「理解」は一番遅くやってきた、という所以である。
ポリーニ、アルゲリッチ、アシュケナージ等をはじめ、国内の有名無名のピアノ弾きにしきりに感じた違和感、しかも自分もその一員であるという苦しい自覚、そこからゆっくりと離れていった。
すると他の楽器や歌声にも一層耳が届くようになる。あるいはこう言い直してもよい、レコードで聴いていた質感がより一層聴けるようになる、と。
具体的に名前を挙げると、エリー・アメリンクというソプラノの清潔な声が好きでずいぶん聴きに行ったものだ。今聴くと、清潔に感じた気持ちはまざまざと思い出すが、声は本当には響ききっていないこともはっきり聴こえる。
あるいは、先に挙げたカール・リヒター。最初の数分は圧倒されたものの、次第に乱雑な耳でしかないのだと分かってしまうと、急に熱が冷めたりした。
聴こえてしまうのは不幸なことかもしれない。気障にきこえそうだが。
それでもこう言っておく。もしもショパンの諸作品が、今日ショパンコンクールで弾かれるように初演されたならば、かれの作品は現在のような人気を博すことはなかったであろう。
実音を通じていっそう録音された音がわかるようになる、その連鎖はモデルとイデーの関係と同心円を描くようである。
ショパンの作品はクラシック・ピアノの古典として不動の位置を占めていますよね。
重松君はそのこと、つまり音楽史的な偉大さを「人気」と言っているのでしょうか。初演で評価されなければ、楽譜も散逸したろうし、ショパンは作曲家として忘れられたかもしれない。初演で評価され、その後いろいろなピアニストが演奏し、それが今日まで脈々と受け継がれてきた。ただし、ショパン作品の本質は、ショパンコンクール優勝者たちの演奏では伝わらない。それはコルトーとかブゾー二とか、ごく少数の「耳」をもった演奏家以外あまり聴かれなくなった、と。
「人気」は、もう一つ普通の意味で大衆受けするということですね。コンクールで優勝すれば有名になりもて囃される。まずは審査員、そして彼らの判断を信頼する一般大衆に気に入られるように、現代人の好みに合った演奏をする。それが、コルトー、いやショパン当人の演奏から、いかに遠いものであろうと。
でもやはり、ショパンの作品が古典として価値あるのは、ずっと演奏されてきた、大衆の好みがいかに変わろうと聴かれ続けてきたから(とりも直さず「人気」に依存してきたから)なのではないかとも思います。