季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

朝比奈隆さん

2008年07月12日 | 音楽
朝比奈隆さんを貶すつもりはない。そこは誤解しないようにしてもらいたい。

第一、僕が仮に批判したところで、朝比奈さんを大指揮者だとみなす音楽批評家がいるし、その言葉によって動かされる人の数は、馬鹿にならないほど多いだろうと推察される。

僕は実に素朴な疑問を呈してみたいだけである。本当に朝比奈さんは大指揮者なのだろうか。

僕はこの人を知っていないのだが、実際に会ってみたらおそらく好感を抱いただろうと思う。僕が音楽家に対して好感を抱くか抱かないかは、じつに単純なことだ。その人が音楽に深い愛情を持っているかいないか、ただそれだけである。音楽家には音楽が好きな人がなるのだろう、とは大きな誤解だ。残念ながら、一般に思われているよりははるかに少ない。

根拠を示せといわれてもね、僕がそう感じるのだとしか言えないな。顔が、声がすべてを語るのさ。

学生のころ、何人かの有名な演奏家のところに伴奏で付いて行った。「そこはもう少しウィーン風に」(ウィーン風ってなんだい、と突込みを入れる人は少なかったな、ハイとか答えてアラスカ風に弾いてさ)「時間だけど、もう一枚切る?(レッスンがチケット制)」「まあ、そんなもんじゃあないの」こんなセリフばかり、しかも声帯が口の中あたりにあるのではないか、といった声で、僕は「こういう出来損ないにはなるまい」と憤慨したものだ。

口先だけで「声は腹の底から出さなきゃ」と言ってごらんなさい。素直に従ったあなたは、きっと大変恥ずかしい思いをしたはずだ。その恥ずかしさを捨てるために、彼らはどれだけの苦労をしたのか。僕も歳を重ねて、そう思えるようになった。そしてよけいに憤慨する。

朝比奈さんはそういった人たちとはまったくちがっていたのだろう。

そういう点では、繰り返すけれど、僕はいやな感じを持っていない。けれど、それは音楽家として当然のことなので、当然のことすら満たしていない音楽家が多いということだ。

朝比奈さんが大指揮者だということに、僕が素朴な疑問を持たざるを得ない理由は、単純なことだ。演奏については、あらゆる意見が正当性を主張できるから、どんな討論をしたところで空しいのだが。

彼が50年の長きにわたって率いた大阪フィルは、世界に冠たるオーケストラに成長したであろうか。ただこれだけだ。

あるいは、指揮者はトレーナーではない、芸術家だという反論もあろうか。しかし、それは幾分かの真理を含んでいるが、やはり空論に近い。

50年も常任でありえたのは異例のことで、やはり何か特別な力を楽員に感じさせたのだろう。それを才能といってもよい。

しかし、音楽家が音に自分の表現を託す以上、音が彼の意匠を具現化しているわけだろう。チェリビダッケは、数年の間にミュンヘン・フィルを世界有数のオーケストラにした。彼が来る以前、歴史あるこのオーケストラは惨憺たる有様だった。アラウが共演するのを聴いて、世界的な名声をもつピアニストもこんなひどいオーケストラと演奏するのだと身につまされたものだ。

クーベリックと前任者ヨッフムはバイエルン放送交響楽団をやはり一流にした。僕がよく知っているところでは、テンシュテットが固い響きにしてしまった北西ドイツ放送管弦楽団を、ギュンター・ヴァントが柔らかい深い響きを持つオーケストラに変えた。

ついでに言えば、ヴァントは二流の指揮者だったが本物だった、と僕は思っている。一流ぽいまがいものが多いのは、焼き物ばかりではない。演奏も同じなのである。二流にせよ、三流にせよ、本物のほうが良い。小林秀雄さんは、茶器の衰退した姿から推して、利休の打ちたてた茶の湯の精神は意外に短命だったのではないか、と言った。演奏芸術が同じではないと誰が言えるだろう。

朝比奈さん自身は自分が一流かどうか、そんなことに関心はなかっただろう。ただ音楽したかっただけだっただろう。そこに傍から、巨匠だとか、大げさな修辞がついただけのことだ。僕があえて指摘するまでのことはないはずである。

つまるところ僕は、音楽は言葉の限界を超えたところでその力を発揮する、というオスカー・ワイルドの言葉を是認する一方で、いったん音楽から「音」が失われたときには、いとも簡単に言葉の軍門に下る危険がある、ということを言いたいだけなのだ。朝比奈さんにはお気の毒としか言いようがない。







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