ショパンが女性に絶大な人気があったことは有名だ。しかも悔しいことに本当のようだ。しかし、ショパンの友人でもあるリストこそ、音楽家にはまれに見るモテモテ男だったらしい。どうだ、ショパン、参ったか!と僕が力むのは馬鹿みたようだな。
リストがどのような男であったのか。それは作品が何よりもよく物語っている。
実際に生きている人物としては、この人は大作曲家の中でもいちばん好人物だったのではあるまいか。これほど鷹揚な人を僕は知らない。今のような世知辛い世では、とうてい現れることは不可能な鷹揚さだ。
ワーグナーの独創性は誰もが口にし、僕もそれを認めるが、いくらワーグナーといえども、何も無いところから生まれたはずもない。
「トリスタンとイゾルデ」の一幕のフィナーレを例にとってみようか。これは、リストの「レ・プレリュード」を下敷きにしていると僕は思う。下敷きはちょっとオーバーだ。そこでの響きに良く似ている。
この曲に限ったことではない。もうひとつ例を挙げれば、ピアノ用練習曲「森のささやき」は「ジークフリート」の一部、あるいは「ジークフリート牧歌」と共通した音楽言語を持っている。ワーグナーは、音楽的な事に関する限り、リストという途方もないアイデアの持ち主が書き散らし、まき散らした音楽の断片を、強い力で鍛えなおした人だといえないだろうか。
したがって、そこかしこに聞き覚えのあるような箇所が出てくる。けちな音楽家だったら「そこは私の作品のどこそこからの剽窃だ」と訴えかねない。まあ、ワーグナーが黙って引っ込んでいる男とは思えないが。
それはそれとして、リストは鷹揚にも、苦言ひとつもらさず、それどころか、ワーグナーの作品をピアノ用に編曲して、その素晴らしさを広めるのに一役買っているのだ。
その上、自分の娘をワーグナーに嫁がせてもいる。これはリストの意思とは無関係らしいけれど。この点に関しては、僕はあまり自信がない。これこそ大事だと思う人は各自調べてください。結果を教えてくだされば、なお有難い。僕も少し物知りになれる。
それらの編曲も、晩年の僧服姿で、遠い眼差しをもって演奏されたのだろうか。ここらへんになると、こちらも遠い遠い眼差しで、空想これ努める必要がある。
僧服を着たのは(たぶん)晩年だろう。そんなことにも関心ある人は調べたらいかが。
でも、若いころから、心の中では僧服を纏っていたのではないか。周りに集う人々に、永遠の生命について語らなかったであろうか。
この「語らなかったであろうか」という僕の言い方は気障ですよ。こうした言い方を僕は好まない。リスト(僕の心に映るリストね)の心情に乗り移ってみようとすると、自然にそうなる。面白いです。
リストという人は、ある種のおめでたさを持っていた。ワーグナーなどは内心あざ笑っていたかもしれない。ショパンに至っては「才能の無い男だが、才能があるように振舞うことができる男」と言っているくらいだ。
そうかもしれない。ショパンの言うとおりだろう。しかし天才同士の論評だと言うことを忘れてはいけないね。尻馬に乗ってそうだそうだとあまり騒がないほうが良い。ショパンの言葉に半ば賛意を示しながら同時に、僕は次のように感じる。
現代にもおめでたい男はいる。「俺ってけっこう人気あったりしてさあ」とか「私の存在感は大きくて」なんてしらっと言ってのける御仁は結構いたりしてさあ、と思わず移ってしまう。
そういう人は、ではリストのように女性に人気があるだろうか。まあ、ないのではなかろうか。
また、仮にリストと同じように、永遠の生命や、見果てぬ夢について遠い眼差しで語る男は現代でいったい人気があるであろうか。ここでも僕は首をひねらざるをえない。
おめでたい存在がリストのようでありえた時代、そしてそれゆえに人気があった時代、そんな時代がたしかにあったのである。考えてみれば羨ましいようなものかもしれない。
と、僕が遠くに目をやりながら言っても、うっとりなんぞしないでしょうが。え、才能さえあったらしますって?それを言っちゃおしまいよ。
リストがどのような男であったのか。それは作品が何よりもよく物語っている。
実際に生きている人物としては、この人は大作曲家の中でもいちばん好人物だったのではあるまいか。これほど鷹揚な人を僕は知らない。今のような世知辛い世では、とうてい現れることは不可能な鷹揚さだ。
ワーグナーの独創性は誰もが口にし、僕もそれを認めるが、いくらワーグナーといえども、何も無いところから生まれたはずもない。
「トリスタンとイゾルデ」の一幕のフィナーレを例にとってみようか。これは、リストの「レ・プレリュード」を下敷きにしていると僕は思う。下敷きはちょっとオーバーだ。そこでの響きに良く似ている。
この曲に限ったことではない。もうひとつ例を挙げれば、ピアノ用練習曲「森のささやき」は「ジークフリート」の一部、あるいは「ジークフリート牧歌」と共通した音楽言語を持っている。ワーグナーは、音楽的な事に関する限り、リストという途方もないアイデアの持ち主が書き散らし、まき散らした音楽の断片を、強い力で鍛えなおした人だといえないだろうか。
したがって、そこかしこに聞き覚えのあるような箇所が出てくる。けちな音楽家だったら「そこは私の作品のどこそこからの剽窃だ」と訴えかねない。まあ、ワーグナーが黙って引っ込んでいる男とは思えないが。
それはそれとして、リストは鷹揚にも、苦言ひとつもらさず、それどころか、ワーグナーの作品をピアノ用に編曲して、その素晴らしさを広めるのに一役買っているのだ。
その上、自分の娘をワーグナーに嫁がせてもいる。これはリストの意思とは無関係らしいけれど。この点に関しては、僕はあまり自信がない。これこそ大事だと思う人は各自調べてください。結果を教えてくだされば、なお有難い。僕も少し物知りになれる。
それらの編曲も、晩年の僧服姿で、遠い眼差しをもって演奏されたのだろうか。ここらへんになると、こちらも遠い遠い眼差しで、空想これ努める必要がある。
僧服を着たのは(たぶん)晩年だろう。そんなことにも関心ある人は調べたらいかが。
でも、若いころから、心の中では僧服を纏っていたのではないか。周りに集う人々に、永遠の生命について語らなかったであろうか。
この「語らなかったであろうか」という僕の言い方は気障ですよ。こうした言い方を僕は好まない。リスト(僕の心に映るリストね)の心情に乗り移ってみようとすると、自然にそうなる。面白いです。
リストという人は、ある種のおめでたさを持っていた。ワーグナーなどは内心あざ笑っていたかもしれない。ショパンに至っては「才能の無い男だが、才能があるように振舞うことができる男」と言っているくらいだ。
そうかもしれない。ショパンの言うとおりだろう。しかし天才同士の論評だと言うことを忘れてはいけないね。尻馬に乗ってそうだそうだとあまり騒がないほうが良い。ショパンの言葉に半ば賛意を示しながら同時に、僕は次のように感じる。
現代にもおめでたい男はいる。「俺ってけっこう人気あったりしてさあ」とか「私の存在感は大きくて」なんてしらっと言ってのける御仁は結構いたりしてさあ、と思わず移ってしまう。
そういう人は、ではリストのように女性に人気があるだろうか。まあ、ないのではなかろうか。
また、仮にリストと同じように、永遠の生命や、見果てぬ夢について遠い眼差しで語る男は現代でいったい人気があるであろうか。ここでも僕は首をひねらざるをえない。
おめでたい存在がリストのようでありえた時代、そしてそれゆえに人気があった時代、そんな時代がたしかにあったのである。考えてみれば羨ましいようなものかもしれない。
と、僕が遠くに目をやりながら言っても、うっとりなんぞしないでしょうが。え、才能さえあったらしますって?それを言っちゃおしまいよ。
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