いつのことだったか、誰だったかまったく思い出せない。
多分雑誌か何かで読んだのだと思う。(我ながらこういう記憶がなくなりすぎる。だからこうしてメモのように書くことにしたのだが)
ある女性の父親が美しい器を集めていたそうだ。ある日、娘に「本当に気に入ったものがあればあげよう」と言った。
彼女は「こんなみすぼらしい家に住んでいて、器と釣り合いがとれないからいらないわ」と断った。
父親は「馬鹿、こういうみすぼらしい家に住んでいるからこそ、ひとつ本当に美しいものを持っておくのだ」と諭したという。
すばらしい父親だし、それを素直に受け止めた娘も素敵だ。器に限ったことではあるまい。こういったのを本当の贅沢というのだ。本当の贅沢を欠いた生活を貧しいという。
勝手に好きな?あばら屋を想ってみて欲しい。そこに大変美しい器がひとつ置いてある。器の周りの空気だけが張りつめている。音もなく、湿気も、暑気も冷気もない。そんな想像力ならば誰でもあるはずだ。素晴らしいではないか。美しいものにはそういう不思議な力がある。
現代人は美しいものを、生活の単なる潤滑油として捉えているのだろうか。衣食足りて知るのは礼節かもしれないが、美しいものへの心の働きは、はるかに本能的なものだと言ってよいと僕は思う。はるかな昔、狩猟に明け暮れ、あすの命も定かではなかった縄文人でさえも美しい土器を作った。そんな昔にさかのぼらなくとも、少し以前までは文明から隔絶された地に住む人々がまだ多くいて、彼らは実にきれいに我が身を飾っていたではないか。
いったいどんな心の働きによるのか。僕は分からない。僕が知っているのは、美しいものを求める心は、衣食足りた後の贅沢品ではないということだけだ。
もしこの文章を読んでくれた人が、はじめに挙げた父娘の話に少しでも共感したならば、その人の心の中にも、幾ばくかの似た心があるということなのである。
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