つい先ごろ子供がシューマンのユーゲントアルバムを持ってきた。
一曲目の曲名を見て突発性ヒステリーを起こしそうになった。ヒステリーは常に突発性だと理屈を言うなよ。
はなうた、とある。
この曲は単純さの極致ではあろう。しかし考えてみれば良い、はなうたはどの様な態度で歌われるのかを。
音楽には様々なジャンルがあるけれどはなうたというジャンルは無い。誰もが上機嫌で歌うのがはなうたであるにもかかわらず。理由を考えるまでもない。
プロのハナウティストなるものを想像できるか?滑稽だろうね。
シューマンほど子供に真摯に接した大音楽家はいない。それについては以前書いたことがある。最上の童話がそうであるように、ユーゲントアルバムにはシューマンという男のエッセンスが散りばめられている。
この「はなうた」にしてもそうだ。もちろん練習する子供は曲名のことは忘れてただ弾く。それが美しければそれで良い。
しかし曲名を与えた人がいるわけで、そちらは放っておけない。
ベートーヴェンの「月光」を「月の光」にして、だって同じじゃないかと言い募ってみれば良い。他の作曲家でもそうだ。「クープランのお墓」としただけでもおかしいではないか。
つまり日本語を通してその人が何をどう感じているかが露わになる。
「はなうた」とした人はこれをはなうたとして感じたのか?僕には救い難い不感症に見えるのだ。
歌曲のリサイタルや放送の曲名などでも何故かは知らないけれど不必要な書き換えが目立つ。例えば文語を口語にするとか。
序でに「綺麗な水車小屋のおねーさん」にしちまえ。
一曲目の曲名を見て突発性ヒステリーを起こしそうになった。ヒステリーは常に突発性だと理屈を言うなよ。
はなうた、とある。
この曲は単純さの極致ではあろう。しかし考えてみれば良い、はなうたはどの様な態度で歌われるのかを。
音楽には様々なジャンルがあるけれどはなうたというジャンルは無い。誰もが上機嫌で歌うのがはなうたであるにもかかわらず。理由を考えるまでもない。
プロのハナウティストなるものを想像できるか?滑稽だろうね。
シューマンほど子供に真摯に接した大音楽家はいない。それについては以前書いたことがある。最上の童話がそうであるように、ユーゲントアルバムにはシューマンという男のエッセンスが散りばめられている。
この「はなうた」にしてもそうだ。もちろん練習する子供は曲名のことは忘れてただ弾く。それが美しければそれで良い。
しかし曲名を与えた人がいるわけで、そちらは放っておけない。
ベートーヴェンの「月光」を「月の光」にして、だって同じじゃないかと言い募ってみれば良い。他の作曲家でもそうだ。「クープランのお墓」としただけでもおかしいではないか。
つまり日本語を通してその人が何をどう感じているかが露わになる。
「はなうた」とした人はこれをはなうたとして感じたのか?僕には救い難い不感症に見えるのだ。
歌曲のリサイタルや放送の曲名などでも何故かは知らないけれど不必要な書き換えが目立つ。例えば文語を口語にするとか。
序でに「綺麗な水車小屋のおねーさん」にしちまえ。
コメントを有難う。
僕は和訳において余りに生真面目にする必要はないと思っている。と言うか、原語をよく消化したならば直ちに日本語のニュアンスに移し替えるのが生き生きした言葉だろうと思っている。
この曲の題だと君の言うように「可愛い歌」でもちっとも構わないだろうな。もしそのような楽譜があったら好感を持つ。
はなうたは首肯しかねる。言語学的にではない。日本語としてなのだな。
話はそれるようだが。
Wenn ich ein Vöglein wär
und auch zwei Flügel hätt
flög ich zu Dir
もしも僕が小鳥だったなら
そして二枚の翼を持っていたならば
お前のもとへ飛んでゆくのだが
この民謡は実に素朴で優しい。これを我が国では「夜汽車」とした。僕はこの大胆な訳?を大変優れたものだと思っている。
子供の時分、田舎にあって遠くから聞こえてくる夜汽車の汽笛は何とも言えない情緒を呼び起こしたものだ。懐かしく思い出す。
trällern は、ネットで見た独英辞典では hum を当てていますが、私のもっている『アポロン独和辞典』では「らららと口ずさむ」となっています。その意味であれば、口を閉じたハミングではないことになり、したがって「はなうた」ではあり得ない。
Liedchen は「小さな、かわいい歌」でしょうか。
私のもっているユーゲントアルバムCDのジャケットの英訳は Lalling Melody ですが、Lalling はたぶん Lulling のミススペルでしょう。でも Lulling Melody ですと、子守歌のようで、この曲の、単純素朴でしかも口ずさみたくなるような親しみ深い味わいを表現できていないと思います。