季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

第一ヴァイオリン主導型

2008年02月08日 | 音楽


第一ヴァイオリン主導型とは弦楽四重奏の演奏スタイルを評するとき、昔の四重奏団を指して言うことばである。たとえばブッシュ四重奏団とかカペー四重奏団とかを指す。

それに対して現代風のを何と呼んでいるのか、僕はよく知らない。いずれにせよ、現在は四人の奏者が対等な立場で演奏する、という理解でよい。

この手の解説は巷にあふれ、愛好家も(これもいやな言い方だ。僕も愛好家のひとりさ。愛好家とはお世辞にも言えないのがプロなら、僕はプロという名前をよろこんで返上しよう)音楽学生も常に眼にしているわけだ。

ではこの人達が第一ヴァイオリン主導型という呼称を目にしたとき、漠然とどんな演奏を思い浮かべるか。僕も実際生徒たちに訊ねたけれど、「プロ」にも訊ねてみたけれど、思った通りの反応なのである。

第一ヴァイオリンが自分の解釈や技巧を全面に押し出して、あとの三人は従属的な演奏をする、という感じ。

昔のカルテットが第一ヴァイオリンの資質に負うところが大きかったのは本当だと思う。そして、そのために他の三人も従属的どころか、きわめて自発的な演奏をしたのだ。そう言ったら奇異に聞こえるだろうか。

ブッシュにせよ、カペーにせよ、音楽に対する態度は真摯そのものであった。その存在の大きさが他の三人をつなぎ止めていたのだ。ブッシュがあるフレーズを極度の集中力で弾いたら、他の三人も当然それに応える。なれ合いになる余地など無いのだ。僕が自発的というのはその意味だ。出来合いの自発性などが入り込めるものではない。

それ以後のカルテットに優れたものがなかったとは言うまい。ただ、論じられる際に第一ヴァイオリンがとりあげられることは次第に少なくなり、古い時代の演奏に対し第一ヴァイオリン主導型という呼称が定着していったのだと想像する。

前に述べたように、実際の演奏は、仮に第一ヴァイオリンの音楽性に基づいていても、皆がそれに触発されてより高度な演奏を目指したわけだから、演奏自体はそれは見事なものが多いのも当然なのである。

多くの人が漠然と思い描くような、主導するひとりと従属する三人、といった構成から高い水準の演奏が生じるはずがない。

反面、核を欠いた集まりでは、果てしない議論も、演奏という実際を前にしてはいずれ何らかの譲歩を強いられ、平均的な表情に落ち着きやすい、とも言えるのではないか。これはブッシュやカペーで果てしない議論がなかったというわけではない。

むしろこういった方がよいかもしれない。ブッシュ、あるいはカペーという名前の奏者に代表される、ある精神的な共同体というべき存在がブッシュカルテットであり、カペーカルテットであったと。

批評家諸氏は、文章をものにする人でありながら、実に安易に、相変わらず第一ヴァイオリン主導型と言い続ける。ことばを受け取る人たちは、ただ自分のイメージで受け取り、それに沿って聴いてしまう。いちばん避けなければいけないことではないか。

耳というものはそう自在に聴けるものではないのだ。


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