季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

落合さんの打撃理論

2008年07月04日 | Weblog
家族の買い物に付き合う。運転できるのが僕一人なので、暇なときは荷物を運ぶためだ。買い物を待つ間、書店で立ち読みするのが結構楽しい。

そんなときに見つけたのが現中日監督の落合さんのバッティング理論書である。落合さんなんていうと、早とちりの人は僕が面識あるのかと思うかもしれないが、そんなことはない。

落合選手というにはもうずいぶん前に引退したし、落合監督のバッティング理論というのも、監督として書かれた本ではないから、なんだかしっくりこない。それだけの理由である。

日本語はそういった点が難しい。でも裏を返せば面白い。ニュアンスに富んでいるともいえる。

ドストエフスキーのドイツ語訳を読んだことがあるが、今ひとつピンとこない。理由の筆頭は、言うまでもない、僕の語学力の不足だ。しかし、ロシア文学者の間では、ロシアの小説は日本語には適している、というのが定説だと聞いたことがある。細かいニュアンスを伝えるには、フランス語やドイツ語はうまくいかないということだった。

フランス語やドイツ語がニュアンスに乏しいということではない。間違えないように。あくまで、ロシアの小説を翻訳する場合の話である。ヨーロッパ系の言葉は、よく知らないけれど、曖昧な感じ、もやもやした得体の知れない感じを出すのは得意ではないような気がする。

ちょいと脱線したが、落合選手は非常に面白いキャラクターだった。僕がドイツから帰国したころが全盛期で、スポーツニュースやニュース番組のゲストでよく見かけた。

彼の打席での構えは、見たところ、力を抜いて、フラーッと立っているようで、バットがユラユラしているようでもあり、神主打法と呼ばれていた。

メディアは、面白おかしく、マイペースだの、才能だけでプレーする男だの、そんなことばかり報じていたような気がする。

さて、上記の本だが、これはこの人が非常に頭がよい人だということを示している。理路整然と打撃理論を説いている本は他にいくらでもあろう。僕が興味を持ったのは、常識になっているものを再吟味しようとする落合さんの意識の動きだ。

それはある時は常識の再確認になり、他の場合は常識の否定になる。

バッティングの基本はセンター返しといって、ピッチャーの投げた球をそのままその方向へ打ち返すことにある。落合さんはその理由を理路整然と解説する。だが、ここではそれには触れない。僕は野球選手ではないし、読む人も多分選手ではないと思うから。もし、読んでくださっているあなたがプロ野球選手だったら、一報願います。サインをねだりますから。

その上で、彼は球場の形が、センター方面へ長い理由は、この方面へが一番打球が飛ぶからではないか、と推論する。

こんなことはどうでも良いことだと一笑に付すこともできる。でも、小さな「なぜ」を育てない人に、立派な結果が伴うことはないだろう。音楽でも、常識になっていることをいったん問い直してみれば、なぜか分からぬことを、自分が言われたからという理由だけで、受け売りしている場合は多いのだ。多すぎると言ったほうがより実情に近いかもしれない。

常識に疑問を呈するほうの例をひとつだけ挙げておく。

打撃練習の中にトスバッティングというのがある。バッターのすぐそばにしゃがんだコーチや選手が、セカンドの守備位置あたりの角度からゆるい球をトスする。バッターはそれをセンター方向に打ち返す。見た人は、ああ、あれかとすぐ分かるだろう。

これは、何年にも亘って行われてきた基本練習のひとつだ。

これは止めたほうがよい、と落合さんは言う。上述のように、ピッチャー返し’センター方向へ打つこと)がバッティングの基本だが、トスバッティングでは、セカンドの守備位置の角度からきたボールを、センター方向に打つわけだ。すると、その時の体の使い方は、ピッチャーのボールをショートやサード方向に引っ張って打つ感じになり、基本を否定するものになりかねない。

なるほどと思う。もう何年ものあいだトスバッティングをしながら幾多の大打者が出たわけであるから、この練習方法を否定するのはなかなか難しいかもしれない。

だが、少なくとも落合さんはその練習なしで、不世出の大打者になった。これだけはいえると思う。あらゆることを疑って、自分自身の頭で考える人だからこそ、あれだけの成績を残したのだ。



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