e411y(回顧録)

e411yの旅でのことを書き残しておきたいと思います。

鹿児島県立考古資料館

2011年12月20日 | 建築物
県立考古資料館は、一八八三(明治十六)年に県立興業館として建設されました。設計者は、フランス人かイギリス人の技師といわれ、壁や床には県内産の石が用いられています。
現在市内にある石造りの建築としては、磯の尚古集成館の次に古い建物です。

戦前は、市役所の仮事務所、県の商工奨励館として使用されていましたが、昭和二十年の戦災で内部が焼け、昭和二十六年改装し、県立博物館として利用されました。現在、県立博物館考古資料館となり、館内には南九州で発掘された土器や石器などの貴重な埋蔵文化財が展示されています。
建物の外には、奄美大島からもってきたカヤぶきの高倉(穀物をネズミの害や湿気から守るための倉庫)や、植物学者の池野成一郎博士が、一八九八(明治三十一)年に精虫を発見したことで有名なソテツもあります。
(出典:「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)

大津皇子

2011年12月19日 | 人物
生年: 天智2 (663)
没年: 朱鳥1.10.3 (686.10.25)
謀反の罪で自殺した皇族。
天武天皇と大田皇女(天智天皇の娘)の子。天武1(672)年6月壬申の乱に際し,近江(滋賀県)を脱出,鈴鹿(鈴鹿市)で父からの使者に会い,続いて伊勢国朝明郡(三重県朝日町付近)において父の一行と合流した。8年5月吉野宮における誓盟に参加,天武の前で皇后(のちの持統天皇),天武・天智の6人の皇子が互いに協力し逆らうことのないことを誓った。12年2月21歳になり,初めて国政に参画。朱鳥1(686)年8月封400戸を加えられたが,同年9月天武が亡くなると,10月2日新羅僧行心らにそそのかされて謀反を企て,失敗して翌日訳語田(桜井市戒重)の家で死を賜った。時に24歳。即日,妃の山辺皇女は嘆いて殉死した。

大津の風貌はたくましく音声明瞭で,天智の寵愛を受け,長じて才学あり文筆を好み,『懐風藻』によれば度量広大で博識,詩文を得意とし,成長するにおよび腕力強く撃剣に巧みとなった。また高貴の身をおごらず人を厚く礼遇したので人気があった。
大津の謀反計画を密告したのは朋友の川島皇子(天智天皇の子)であったという。逮捕された三十余人のうち,行心ほかひとりを除きみな赦免になったことから察すると,計画が事実無根ではなかったとしても,子の草壁皇子を擁立する皇后らが事前に察知し,大津の抹殺のために利用したと考える説が有力である。大津の墓は二上山の雄岳(奈良県当麻町)にある。
『万葉集』に4首の短歌,『懐風藻』に4編の詩を遺す。死に臨んでの「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」の哀切の一首は有名。

同母姉の大伯(大来)皇女が『万葉集』に遺す歌6首はすべて大津への思いやりとその死の哀惜を表す。
1984年度飛鳥京跡調査で,「大津皇」「大来」などの木簡削片が出土した。
<参考文献>直木孝次郎『持統天皇』

ブック○○半額セール

2011年12月18日 | 読書
昨日、この冬に炬燵で読む本を探しにブック○○へ行って驚いた!
駐車場がいっぱい、店内が凄い人!
なんと・・・この日だけの“半額セール実施中”!
私も、日頃買えない値段(105円コーナー以外)の本を買って帰りました。
これだけ買って約1500円。

ガラガラ福引きは3回やって、全部ハズレやったけど、
年末に得した気分になれました。

翔ぶが如く

2011年12月17日 | 読書
これから“司馬遼太郎”を探しに、
ブック○○に出かける予定。
まだ読んでない本に出会えるとええなぁ~
寒い冬は、お炬燵で読書や・・・

ソテツの精子

2011年12月16日 | 趣味の園芸
鹿児島・照国神社の大鳥居前,“桜島爆発記念碑”近くで見かけたソテツになにやら解説が・・・
「世界で初めて精子が発見されたソテツ」と書かれていた。
私,“お葉つきイチョウ”を探したこともあるんです・・・

明治29年に,世界で初めてソテツの精子が発見されたことを東京帝大(現在の東京大学)の池野成一郎博士が発表した。その材料となったのが,県立博物館・旧考古資料館前庭にある高さ5.9m,樹齢約400年と推定される雌雄のソテツ群。
この雌株についた胚珠の中から精子が発見された。
当時,生物学の世界では,コケやシダ植物以外の陸上植物の中でどんな植物が精子を持つかということに関心が持たれていた。大学が誕生して10年あまりにしかならない日本が,当時として生物学の最先端の発見をした快挙だった。

ザビエル滞鹿記念碑

2011年12月15日 | 人物
イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが、薩摩人ヤジロウの案内で鹿児島に上陸したのは天文18年(1549)でした。これが日本最初のキリスト教の伝来です。
しかし、仏教徒の激しい反対にあい、ザビエルは10カ月で平戸に移りました。
鹿児島市東千石町のザビエル公園にある滞在記念堂は、明治44年(1911年)にザビエル渡来を記念して、鹿児島県内で最初の石造りの教会が建てられました。しかし、昭和20年の戦災で焼けてしまい、焼け残った旧教会の石壁を利用して、記念碑がたてられたものです。
また、道路の向かい側にあるザビエル教会は昭和24年にローマ法王の寄付金をもとに建てられたゴシック建築の教会でしたが、これも平成12年に建て替えられ今は近代的な教会になっています。

@フランシスコ・デ・ザビエル(スペイン語:Francisco de Xavier または Francisco de Gassu y Javier, 1506年頃4月7日 - 1552年12月3日)
スペイン・ナバラ生まれのカトリック教会の司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。
ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。

1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌1549年4月15日、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人と共にジャンク船でゴアを出発、日本を目指した。
一行は明の上川島(広東省江門市台山/en:Shangchuan Island)を経由しヤジロウの案内でまずは薩摩の薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、1549年8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した(この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた)。
1549年9月には、伊集院城(一宇治城/現鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得た。ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と好んで宗教論争を行ったとされる。後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどにもこの時に出会う。
しかし、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩を去った(仏僧とザビエル一行の対立を気遣った貴久のはからいとの説もある)。

深夜の天文館むじゃき

2011年12月14日 | グルメ
全国に知られるかき氷「白熊」の本家。
シロクマの顔をイメージしたかき氷に、自家製のミルクと蜜をたっぷりかけて季節のフルーツをトッピング。
ヨーグルト味もあるという。
ただし,行ったのが夜中やったので店は閉まっていた。

@天文館むじゃき
「鹿児島でここの白熊ははずせない!」と常連の人も多い。ふわふわの氷にたっぷりとかけられたミルクは自家製。氷の溶け具合を考え、甘すぎず、くどさが残らないおいしさ。8種類以上のフルーツも見た目に鮮やか。メニューは18種類あり、プリンがのった『プリンデコレーション白熊』も人気。全国発送もOK。

小松帯刀像

2011年12月13日 | 人物
小松帯刀の像に中央公園の近くの中央公民館横、宝山ホールというホールの前で出会った。
大河ドラマ『篤姫』でよく見たお方。
背景の都合で撮影が難しかった。

@小松清廉(こまつ きよかど)
天保6年(1835年)~明治3年(1870年)は薩摩藩士、明治時代初期の政治家。天保6年(1835年)、喜入(現鹿児島市)領主の肝付兼善(きもつきかねよし)の三男、尚五郎(なおごろう)
として生まれた。
安政3年(1856年)、22歳のとき島津斉彬の命によって小松家の養子となり、小松帯刀清廉(きよかど)と改名、島津斉彬のもとでは火消隊長などして活躍、斉彬の死後にあたる文久元年(1861年)には側役に昇進し、第29代藩主島津忠義のもと、大久保利通を重用するなどしながら島津久光を補佐した。
さらに文久2年(1962年)からは家老として、薩長同盟や王政復古に関わり、西郷隆盛、大久保利通といった薩摩の志士の活躍を藩の家老という立場で支えた。
明治3年(1970年)に病気のため、36歳の若さで亡くなった。
小松清廉は、一般には小松帯刀(こまつ たてわき)の呼び名で知られる。

皆既月食観測

2011年12月11日 | 日記
昨夜は“皆既月食観測”。
楽しみにしてたのに・・・
我が家上空は雲に覆われ、時々小雨。
待っていたら雲の切れ目はあるんやけど、月を観ること出来ず・・・
写真は暇つぶしに撮ったナトリウム灯。

@冬の夜空に「赤い満月」 日本各地で皆既月食観測
冬の夜空に「赤い満月」が現れました。月全体が地球の影に隠れる「皆既月食」が、10日夜に日本各地で観測されました。
月食は太陽、地球、月が順に一列に並んだ時に起きる天体現象です。今回は月の高度も高く、気象条件さえ良ければ、全国で始まりから終わりまで観測できる最高の条件でした。都内では、午後9時半すぎから白く輝く月が徐々に欠け始め、午後11時半ごろに月が地球の影にすっぽり隠れる皆既の状態になり、赤い満月になりました。赤く見えるのは夕焼けの原理と同じで、波長の長い赤い光が月を照らすためです。道行く人たちも赤く光る幻想的な月に立ち止まって空を見上げていました。
月食を見た人:「生まれて初めて見るので、結構きれいというか、不思議な体験をしましたね」「幻想的ですね」「天気が晴れた時に見られて良かったです」

森伊蔵

2011年12月10日 | 
森伊蔵(もりいぞう)は、日本の鹿児島県垂水市に本拠を置く酒造メーカー・森伊蔵酒造より発売されている芋焼酎のブランドである。
鹿児島産の有機栽培のサツマイモを原料とし、手間の掛かる伝統的なかめつぼ仕込みにより生産している。イモ臭さを除去したまろやかな味を特徴としている。「幻の焼酎」として知られる。「魔王」「村尾」と合わせて「3M」と呼ばれる。
公式の店頭販売価格は1.8 リットル入り1本2,225円で、日本全国65店の特約店での販売のほかに毎月15日に電話で申し込みを受け付けて抽選により販売が行われている。
かつては垂水市の生産元で直接販売もしていたが、発売日に日本全国から人が集まるようになり、警察が出動するなどの騒ぎになったことから電話受付となった。電話受付になってからも、2時間に100万本を超える電話が殺到してNTTの交換機がハングアップする事態を引き起こしたため、1999年からは電話で受け付けた中から抽選で販売するようになっている。この電話による抽選は、確率約0.2 パーセントとされている。

うまかっちゃん

2011年12月09日 | 麺類
息子に鹿児島土産に買ったのは『うまかっちゃん』。
空港の売店で見かけたから。
鹿児島の家庭に必ず買い置きがあるって書いていた。
せやけど・・・
家で息子に渡したら,「これ,博多と熊本って書いてあるやん!」って言われてしまった。

@『うまかっちゃん』
ハウス食品から発売されている袋麺(インスタントラーメン)。
正式な商品名は『九州の味ラーメン うまかっちゃん』。
1979年9月12日に九州限定の豚骨味ラーメンとして発売開始。
カレーや香辛料の製造・販売が中心だったハウス食品は1973年にインスタントラーメン事業に参入したが、九州ではシェアが低かった。ハウス食品のインスタントラーメンは同社福岡工場(福岡県古賀市)にも製造ラインが設けられていたが、1978年、当時の福岡工場長が「九州人に醤油味は合わない。九州人は豚骨味が好みだ」と当時のハウス食品福岡支店長に直談判した。その結果、「うちでも九州で売れる製品を作ろう」と支店長の提案でハウス食品も九州風豚骨ラーメンの開発に着手した。
発売開始から半年後、九州地区ではテレビCMを大量に流した効果からか、即席麺最大手の日清食品や福岡市に本社を置く九州でシェアの高いマルタイを抑えて「うまかっちゃん」が袋麺でトップシェアとなった。以降現在も九州地区における即席袋めんのトップシェアを誇っている。

鹿児島ラーメン 豚とろ

2011年12月08日 | 麺類
豚の首まわりの肉「豚とろ」を使ったチャーシューは、トロリとした食感が絶妙。
ラーメンは、こってり、あっさり、うす味、こい味、やわ麺、かた麺など好みに応じてくれる。

観光グルメマップのパンフを示せば,煮卵トッピングをサービスしてくれる!

天璋院篤姫像

2011年12月07日 | 人物
天璋院 / 篤姫(てんしょういん / あつひめ、天保6年12月19日(1836年2月5日) - 明治16年(1883年)11月20日)は、江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所となった。
実父は薩摩藩主島津家の一門・今和泉(いまいずみ)領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。薩摩藩9代藩主・島津斉宣の孫。
幼名・一(かつ、もしくは、いち)。本家当主で従兄・島津斉彬の養女になり本姓と諱は源 篤子(みなもと の あつこ)に、近衛忠煕の養女となった際には藤原 敬子(ふじわら の すみこ)と名を改めた(この際に篤の名は君号となり、篤君(あつぎみ)」となった)。

@篤姫銅像が鹿児島に完成 誕生日に除幕式(2010年12月19日の記事)
薩摩藩の出身で、幕末の徳川将軍家を支えた天璋院篤姫の銅像が、10代の一時期を送った鹿児島市の鶴丸城跡にある歴史資料センター「黎明館」に完成。篤姫誕生日の19日、市などの実行委員会が除幕式を開いた。
像は台座を含め高さ約3・1メートルで、鹿児島市の彫刻家中村晋也さん(84)が、篤姫40歳前後の写真を参考に制作。
除幕式で徳川宗家第18代当主の徳川恒孝さん(70)は「篤姫は早くに江戸に嫁ぎ鹿児島に戻ることはなかった。鹿児島に素晴らしい像ができてうれしい」と感慨深げに話した。

大久保利通像

2011年12月06日 | 人物
明治の風にフロックコートをひるがえす、大久保利通のモニュメント。

西郷隆盛、木戸孝允と並び明治維新の三傑と言われた人物で、明治政府の中心的役割を果たしていた。
銅像は昭和54年、没後100年を記念して彫刻家・中村晋也によって製作されたもので、高さ4.3m。
足元には暗殺された際に共に犠牲になった馬車夫と馬の像もある。

西郷隆盛像

2011年12月05日 | 人物
江戸城無血開城や明治新政府樹立など明治維新に最大の功績を残した「西郷どん」ですが、征韓論に敗れ下野。 その後、西南戦争で新政府軍と戦い敗北し、この城山の地で自刀しました。
没後50年祭記念として鹿児島市出身の彫刻家で渋谷の「忠犬ハチ公」の制作者・安藤照が8年をかけ製作し、昭和12年(1937年)5月23日に銅像が完成しました。わが国初の陸軍大将の制服姿で、城山を背景に仁王立ちする高さ8メートルの堂々たるモニュメントです。本体5.76メートル、土台1.21メートル、築山7.27メートル。

※東京都台東区上野の上野公園に建っている西郷像は高村光雲の作(傍らの犬は後藤貞行作