e411y(回顧録)

e411yの旅でのことを書き残しておきたいと思います。

明日香村の飛鳥さん

2010年10月26日 | 県内
明日香村にある飛鳥坐神社。
その表札を覗いたら・・・
な,なんと!
「飛鳥」という表札が掛ってた!

仏隆寺界隈の3つの千

2010年10月16日 | 県内
奈良県宇陀市にある仏隆寺の界隈には,
3つの「千」があるという。
1つは,仏隆寺の「千年桜」。
もう1つは,赤埴の「千体仏」。
そして,高井の「千本杉」。

大安寺・がん封じの笹酒祭り

2010年08月30日 | 県内
知人が癌だという。



共働きをしていた奥さんは,看病のために仕事を辞めると聞いた。



それを聞いた私は,大安寺へお参りに。



@光仁会・がん封じの笹酒祭り

桓武天皇が文武百官を伴い、先帝光仁天皇の一周忌の齋会を大安寺で営まれたという『続日本紀』の故事により、毎年一月二十三日に光仁会が行われる。
この法会は。風雅な青竹づくしの祭儀で光仁天皇ゆかりの「 笹酒」の接待が行われ,「がん封じの笹酒」として広く知られている。
光仁天皇は,不遇な白壁王時代にしばしば大安寺の竹林にて浄竹を伐り、酒を注いでお召しになり、中国の故事にいう「林間酒をあたためる」風流を催されて無病息災を保たれた。実に六十二歳という当時破格の高齢で帝位につかれ、七十三歳まで在位された。

この帝にあやかって悪病難病を封じ健康に過ごそうと催されるのが「笹酒祭り」。
この日はがん封じの御祈祷と笹酒の薬効が相俟って、御利益あらたかで、遠近からの参詣者で境内はあふれる古都奈良の新春の風物詩となる行事である。
竹は漢方薬にも竹瀝・竹茹・竹黄などにみられるように多様に使われ、現代薬学からみてもビタミンC・K・Eをはじめ、クロロフィルやカルシウムを含有しており、健康によいとされている。

「写真;大安寺・売店の笹酒・笹水」




久米仙人伝説

2010年08月30日 | 県内
昨日の午後,私は屋敷の隣にある竹藪の手入れをした。



梯子を架け,石垣まで伸びてきた竹を鉈で切る作業。



しかし,日頃の運動不足が祟り,腕が動きにくくなり,

足の踏ん張りが効かなくなってきて,

さらに考え事をした瞬間,梯子の上でバランスを崩し・・・



やっとのことで竹にしがみつき,落ちずに済んだのでよかったんやけど・・・



ぶら下がりながら思い出したのが,私が尊敬している「久米仙人」の伝説やった。



※久米仙人伝説

むかし吉野の竜門寺にこもって神通飛行術の会得の修行をしていた二人の青年がありました。

一人をアツミといい、もう一人をクメといいました 。

竜門岳にのぼって山中をかけめぐり、滝に打たれたりしてそれは厳しい修行でした。アツミはこの秘術を先に修得して仙人となり雲にのぼりました。

後になったクメも更に修行に励み、やっとの事で空を飛べるようになりました。

吉野川を越える時、川の畔で若い娘が着物を洗っていました。裾を捲り上げて、白いすねをあらわに出していました。クメはいやしい心がムラムラとおこり、そのとたん長い間の修行した神通力は消えて、女の前に落っこちてしまいました。クメはもとの人間となりその娘を妻 として夫婦仲良く暮らしました。

そんな頃、天皇は高市に都を造ろうとなさっていました。クメも夫役に呼び出され、他の人夫達は、「あの、クメはもと仙人、スケベ心さえ起こさなかったらこんな辛い仕事をさせられなくてよかったのに」。

この話しが役人に伝わり、行事官はたわむれに「この木材を手で運ぶよりは、仙術で山からここへ飛ばしてもらえれば早いものだがなぁ~」と、云いました。

クメは7日間、断食をして再修業をしました。そして ついに8日目の朝、にわかに雲がくもり暗夜のごとくなったかと思うと雷が鳴り渡り雨が激しく降って、辺りが見えなくなりました。やがて空は晴れ渡り、そのときたくさんの木材が南の山から飛んできて都を造ろうとしている場所に積み重ねられていました。

これを知った天皇は恩賞として免田三十町をクメに与えられ、クメは喜んでこの田をもらい、一生楽しく暮らしたといいます。

その土地に建てた寺が,橿原神宮のそばにある久米寺です。

寺を建ててからのクメは、薬師如来をまつり、自分の姿までを木像にして寺に残し、一生病気にかからないという竹の箸も作ってみんなに配ったという事です。

「写真;久米寺と久米仙人の石像」




嶽の立石

2010年08月30日 | 県内
あの日、何かスッキリしない、期待したわりに感動のない気持ちで道標のある分岐まで戻った。


分岐で車を停め、下車して、残念な気持ちで今下りて来た山の方角を眺めた。


車に乗ろうとして、道標を再度見ると、大きな道標の下に小さな道標があるのが分かった。


その小さな道標では、「寝石」は左を示しているのに、「立石・蛇石」は右を示している?


なんで上の大きいのと、下の小さい道標が示す向きが違うの???


知人と話した時、立石まで車で行けると云っていた。


だから私は、無理に山道を車で上ろうとして諦めバックしたんや・・・


なぁ~んや~ 右側の道のほうがエエ道で広いやんか・・・


諦めていた気持ちが復活し、再び「嶽の立石」 にチャレンジすることに!

右側の新しくて広い道を車で快調に上った。

小さな神社(嶽神社)が見えてきた。


公衆トイレまで完備されていた。


しかし「嶽の立石」は、まだまだ前方なのか?


しばらく走って道標を発見!


しかし、そこには「嶽次郎」「嶽三郎」と書かれていた。


「嶽太郎」はさらに先にあるらしい???

「蛇石」はさらに先の先にあるという。


でも・・・さっき、谷間の道を歩いた苦労は一体なにやってんやろうか?


やっぱり、汗をかいて旨くビールを飲むためとしか説明がつかへんよなぁ~


せやけど、細長い巨石があんなに乱立している光景には感動した!


どうしたら、あんな風に石が立つんやろか?


昔の人がこれを見たら、信仰の対象に思たやろなぁ~


「写真;嶽太郎」


益田岩船

2010年08月30日 | 県内
久々に「猿石」を見た感動と興奮の状態で、再び車に乗り込んだ。



すぐに用事に戻れる心の状態ではない。



以前から見たかった「益田岩船」を、どうしても見てみたいという感情を抑えられなくなっていた。



「益田岩船」のおおよその場所は知っていたが、橿原の団地のはずれの山の上という程度。



ここの団地はかなりの大きな規模、その中を通 る何本もの縦横の道路のうち、どれを通ればよいのかは知らない。



やっとのことで目的地付近に到着し、車を停める場所を確保した。



山に登る入り口は、小さな公園になっていた。



そこに1人の男性がいたので、「益田岩船は、この道を行けばいいんですか?」と聞いた。



その男性からは、予期せぬ答え。



道がかなり急なこと、途中でロープをつたって登る箇所があることを教えてくれた。



それを聞いて私は自分の足元を見た。



この日、私は用事で出かけるために革靴を履いていた。

車まで戻ればトランクの中に運動靴がある・・・でも少し距離が・・・



まぁ~昔登山をしていたのだから大丈夫やろうと、そのまま登ることにした。



結果?



それなりに急な坂道を、それなりにロープを使って登り切った。



やがて竹が繁るその向こうに巨大な岩が見えて来た。



感動や!



それは、高さ約5m、南北約8m、東西11m、重量約800tという大きさ!



その石の胴の下半分には、縦横に溝が刻まれていた。

何のために縦横に溝を刻んでんやろう???



とりあえず、私は「益田岩船」の周囲を一周することにした。



一周したんやけど・・・岩の上部にあるという溝や正方形の穴が見えない。



ここは山の斜面、斜面を登れば上部を見下ろせる場所があるはず。



少し高い場所に登ると「益田岩船」の上部が斜めに見えた。



私の心にムクムクとこの岩に登ってみたいという願望が・・・



斜面上部(南側)から登れば、岩の高さは低い。



しかし・・・岩の表面は磨いたかのようにツルツルで、滑り台のようやった。



運動靴さえあったら、斜面の上部から助走をつけて走ったら、そのまま登り切れるかも?



なんであの時、運動靴履き替えて来うへんかってんやろう・・・



今から靴履き替えに車まで戻ろうか・・・



革靴でチャレンジしてみようか!



でも・・・失敗したら、ツルって滑ってスラックスの膝に穴があき、打撲か出血?



私は革靴と靴下を脱いで、そ~っと登ることにした。



素足を岩の表面に乗せ体重を掛けようとした瞬間、「これはアカン!無理!」って感じた。



諦めきれない私は、次の可能性を探した。



岩の東壁、北壁は登れそうにない。



残るは西壁だけ。



岩に刻まれた縦横の溝に手と足が掛かれば登れそうな気がするんやけど・・・



仮に登れたとしても降りれるやろか?



昔、北アルプスの穂高・ジャンダルムで、足が滑って岩壁にぶら下がったことがある。



馬の背、ロバの耳も歩いたよなぁ~



まぁ~高さ5mの岩で死ぬことはないやろうから・・・



※用途については空海が碑名を撰した益田池の顕彰碑の台座、古墳の石槨、占星台、拝火教の祭壇などの諸説があるが、はっきりした事は判らず今も謎のまま。



「写真;益田岩船」

又兵衛桜

2010年08月29日 | 県内
今日の雨は、おそらく桜の「花散らし」の雨になるだろう。



先日,国道166号を通って「中央構造線;月出露頭」に行こうとしたとき、大宇陀の「又兵衛桜」の近くは車と人でかなり混雑していた。



この「又兵衛桜」は、2000年のNHK大河ドラマ「葵・徳川三代」のオープニング画面で使われ 一躍有名になった桜だ。



「又兵衛桜」は、大坂夏の陣で活躍した後藤又兵衛にちなんで名づけられたそうだ。



幼くして父を失った彼は、戦国随一の智将・黒田如水の庇護のもとに育った。やがて如水の子・長政を凌ぐ大器として朝鮮の役、関ヶ原の合戦で活躍。筑前大隈城一万六千石の城主になるも、長政との確執の果てに、又兵衛は浪々の身となった。だが、豊臣秀頼に招かれて大坂の陣に参戦、縦横無尽の働きぶりを示して、華々しく散ったという。しかし一説には,又兵衛は戦いに破れここ大宇陀の地で僧侶になり,この場所は後藤家の屋敷跡だという。



この「又兵衛桜」の樹齢は300年と言われている。



今年の桜もこの雨で終わりなんやろかなぁ~



「写真;又兵衛桜」

花の吉野

2010年08月28日 | 県内
本日、6時前に起床、朝食をとって6時半過ぎに出発。

吉野へは30分ほどで到着。

すでに他府県ナンバーの車が、吉野川沿いの臨時駐車場へと列を作って並んでいた。

私はその車の列の横をすり抜け可能な限り蔵王堂の近くへと向かった。

車を停めたのは、蔵王堂の東側、如意輪寺との間の谷間の道路。

谷間から桜咲く道を急ぎ登る。

桜の花を眺めるゆとりもなく、勝手神社近くへと出た。

参道の両側に並んだお店を覗くことなく、一目散に蔵王堂へ。

昨日、今日と蔵王堂では“花供懺法会”が催されているようす。

早朝というのに、凄い人の出だ・・・

その中には、吉野山人さんのお姿も?

蔵王権現にお参りをすませ、休憩なしでその西側の谷底にある“脳天大神”へと石段を降りた。

一生懸命拝んできました。


吉野・脳天さんのご利益

2010年08月28日 | 県内
誰に聞いたか、母の病気には、“吉野の脳天さん”がご利益あるという。


すぐにでも行ってきたいのだが、この土日となると、この桜の季節、吉野へは車で簡単には着くことが出来ないだろう。


確か脳天さんは、金峯山寺・蔵王堂から谷底へとかなりの石段を降りるんだったよな・・・


本日、母は私の話す言葉に頷いてくれたように見えた。


ただし、意識が戻ったのかどうかは不明である。

「金峯山寺史」より
脳天大神の創祀
昭和二十六年、五條覚澄の手によって脳天大神が創記された。その経緯は次のようなことであった。
戦後、女性信徒が増加して女性のための行場が望まれたため、昭和二十五年十一月十九日、蔵王堂の西方の谷間にある一の滝(龍神池)の上に、山上行場を模した屏風岩、衣掛岩、押分岩、鐘掛岩などからなる女人行場を開いた。そして、その行場の入口に翌昭和二十六年四月九日、役行者の大銅像を建立した(時報153・154号)。さらに六月二十八日、新しい滝場である金龍の滝を開発し落水した。その前日、五條覚澄が新滝の工事現場へ向かう途中、だれかに頭を打ち割られた一匹の蛇に遭遇した。五條覚澄はあその蛇を一の滝の右にある洞窟に置き回向したのであった。ところが、その翌日からその蛇が霊現を繰り返し、ついに七月十日、ある人に憑依して「まつられたし。まつられたし。吾は頭を割られた山下の蛇である。蔵王の変化身である。脳天大神としてまつられたし。首の上野如何なる難病苦難も救うべし」と告げた。この霊示によって七月十三日、脳天大神の霊標を金龍王の地に立てた。すると次第に多くの参拝者が来るようになり、狭隘になったため現在地へ移転したのであった。(五條覚澄「霊話不思議」・「人生には奇跡がある」)。


お水取り

2010年08月28日 | 県内
今朝の新聞に“お水取り”が大きく載っていた。
“奈良・東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)(お水取り)で12日夜、長さ約8メートルの「籠松明(かごたいまつ)」が登場し、舞台から激しく降り注ぐ火の粉が、堂を赤く浮かび上がらせた。
籠松明は、練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる11人の僧侶が二月堂に向かう際、補佐役の童子(どうじ)が掲げる道明かり。童子が重さ各60キロ前後の籠松明11本を欄干に突き出して振り回すと、炎が一段と大きくなり、境内を埋めた約3万3000人を魅了した。
13日未明には、二月堂の本尊・十一面観音に供える香水をくむ「水取り」も行われ、1257回目となる修二会は15日未明に満行を迎える。”

昨年、見に行ったその感動を家人に伝えたかったのに、

帰りの電車の中で、少々酔っていたからかデジカメの動画を消去してしまったのだ。
今年、一緒に見に行こうと約束してたのに、家人は風邪気味・・・
14日に終わるんやから、今日と明日しかチャンスはない。
明日は雨?
まぁ~来年の楽しみに残しておこうかなぁ~
今夜は家でおとなしく、TV『鹿男あをによし』でも見とこかなぁ~
机の横の本棚には、新聞紙の上に焦げた杉葉。
私が去年、お水取りが終わった後、東大寺二月堂で拾ってきたもの。
早いもので、もう一年が過ぎたんや・・・
奈良にもまた春が来たんやなぁ~


大和川の鮎

2010年08月28日 | 県内
今日は、昨日からの雨で少し水かさが増えた?川を見ていたら、

先日あったうれしいニュースを思い出した。


11月末の新聞記事によると、

「奈良盆地から大阪湾に流れる大和川は、2005年と2006年、全国の1級河川で最も水質が悪いとされていた。

大和川河川事務所は、大阪府藤井寺市内の川でアユの産卵を初めて確認したと発表した。

赤ちゃんアユも確認され、推定4万匹が大阪湾を目指して下って行ったらしい。

下水道などの整備が全体的に進んできた結果と思われ、今後もっときれいな川になるものと期待される。」とあった。


学生の頃、北海道旅行の最後に訪れた札幌で、市内を流れる豊平川に鮭を呼び戻そうと、“カムバックサーモン”運動が展開されているのを見たことがある。


この大和川にも天然の鮎の泳ぐ日が近いことを祈っている。











好去好来

2010年08月27日 | 県内
好去好来(無事の往還を祈る)

「神代より 言ひ伝て来(け)らく そらみつ 倭(やまと)の国は 皇神(すめかみ)の 厳(いつく)しき国 言霊(ことたま)の 幸(さき)はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高光る 日の朝廷(みかど) 神ながら 愛での盛りに 天の下 奏(まを)したまひし 家の子と 選びたまひて 大御言(オホミコト) 戴き持ちて 唐(もろこし)の 遠き境に 遣はされ 罷りいませ 海原の 辺(へ)にも沖にも 神づまり 領(うしは)きいます 諸々の 大御神たち 船の舳に導きまをし 天地の 大御神たち 倭(やまと)の 大国御魂(みたま) 久かたの 天(あま)のみ空ゆ 天翔(あまかけ)り 見渡したまひ 事終り 帰らむ日には 又更に 大御神たち 船の舳に 御手うち掛けて 墨縄を 延(は)へたるごとく あぢおかし 値嘉(ちか)の崎より 大伴の 御津の浜びに 直(ただ)泊(は)てに 御船は泊てむ 障(つつ)みなく 幸くいまして 早帰りませ」
(894番・733年山上憶良の大唐大使丹比(たじひ)真人広成に捧げた歌)

この週末、我が友、米国における研修を終え帰国する。

“好去好来”・・・無事の往還を祈る・・・

「写真;大和(おおやまと)神社・・・遣唐使の無事を祈った神社だったとか・・・

       また、戦艦“大和”にも分祀されていたのだとか・・・・」


出雲人形

2010年08月27日 | 県内
もう少しだけ近江八幡のこと・・・

近江八幡の町を散策していると、“朝鮮人街道”という文字の刻まれた道標を見かけた。


そのことについて調べてみたいと思った。


「滋賀県は古代から韓国・朝鮮からの渡来人との交流が盛んな地であった。湖東を縦断する朝鮮人街道は江戸時代の両国の交流を象徴するものであろう。慶長12年(1607)から文化8年(1811)までの約200年間に亘って12回の朝鮮通信使が来日した。そのうち10回が野洲から中山道を外れ、近江八幡を通り彦根鳥居本で再び中山道と合流する約40kmの道を通った。これが朝鮮人街道または彦根道と呼ばれている道である。」


なぜ調べてみたいと思ったのか。


それは、我が家の近くの長谷寺の参道で“出雲人形”が売られている。

昔から長谷寺参詣の土産として出雲という集落で作られている土人形である。

その“出雲人形”の中に“朝鮮通信使”ではないかと考えられるデザインの人形があるのだ。


奈良・長谷寺と朝鮮通信使との関係は?

興味と関心は深まるばかり・・・