e411y(回顧録)

e411yの旅でのことを書き残しておきたいと思います。

初めての車椅子

2010年08月28日 | 我が家
今夕、母は生まれて初めて車椅子に乗せてもらったらしい。

鼻に繋がっていた酸素も外されたとのこと。

車椅子に乗っても何も出来ない母ではあるが、

今大切なのは“脳に刺激”を与えるコトだと言う。

これから暫く、母は車椅子に乗せて貰って、

病院内を押し歩いてもらうことだろう。

「写真;千羽鶴と鯉のぼり

    千羽鶴は母が入院した翌日から、見舞いに来た者で折った。」


友風子雨

2010年08月28日 | 我が家
昨日の爺さんの死去が、我が子たちに与えた影響は大きかった。

先に戻って来て(昨日の昼)病院にいた長男は、その爺さんとお別れが出来るよう親族にお願いしたのだという。そして病室で涙を流していたという。

昨夜遅く帰宅した次男に爺さんのことを告げると、落胆は大きかった。

私の二人の息子たちは、これもなにかの縁でおよそ1月の間、ほぼ毎日、その爺さんと会って話をしていたのである。

そして人生で初めて、壮絶な人間の死に遭遇してしまったのだ・・・

今日の昼前、母はICUから個室に移ることが出来た。

昼の面会時、母の西隣のベッドで入院している茨城県の男性の奥さんと息子さんたちが、面会に到着された。そしてICUに入って、隣2人がいないのに驚かれたということだ。

今日の母は、我々に何も話してはくれなかった。

母の入った病室が、見舞いの人で一杯だったからだろうか?

長男は、「今夜、お祖母ちゃんのベッドの横で寝るわ!」と云って、病院に残ってくれている。

「写真;大和青垣

     青垣って新緑の季節のことなのだろうか?」


ベッドをはさんで

2010年08月28日 | 我が家
今日は、家人の実家から義母が見舞いに来てくれたという。

母のベッドをはさんで、家人と義母が会話した。

話題はここ最近の家人の生活の様子。

早起きをして朝食を準備し、家の掃除もしているという内容。

義母が家人に

「今までずっと(25年間)、お母さんに甘えててんで~。

お母さんの苦労、よう分かったやろう。

何にも云わんと お母さんがしてくれてはったんや。

感謝せんなあかんで!」と言うと、

ベッドの母が大きく2度頷いたという。

「写真;吉野山で見かけた“かき餅”」




1と2

2010年08月28日 | 我が家
多くの方からの励ましのコメント、感謝しています!

それぞれの方のブログにお邪魔して、コメントをする余裕がないのが残念です。

昨夜、私と母は久しぶりに話?をした。

ICUの夜の面会時間、午後6時からの1時間。

面会しているのは、おおよそ私だけの貸し切り状態。

再手術の後、母も麻酔から覚め、落ち着いたのか、以前以上の反応を示してくれた。

この一ヶ月間あったことを私が耳元で話をすると、母は話の節目、節目でそれなりに頷いてくれたのだ。

嬉しかった 本当に・・・

母は時折、何か話したそうな仕草もした。

3日ほど前、母に着いていた人工呼吸器は外されたのだが、母の喉は気管切開され、酸素を多く含んだ空気が流れるパイプがついたままである。

今日の昼、家人からのメールによると、母は医師の呼びかけに答えるかのように、指を1本、2本と示したそうだ。

夕方、病院へ行くのが楽しみだった。

結果・・・それなりに私にも1と2を示したように見えた。

「写真;昨秋、私が植えたチューリップ」


菜種梅雨

2010年08月28日 | 我が家
本日も奈良は雨。

飛鳥寺近くの菜種畑は雨に濡れ、黄色い色が美しかった。

母は麻酔から覚めたようだが、大きな変化はなく、時折瞼を開けてはすぐに閉じるのみ。

お昼の面会時間、長男が1時間かけて母の手と足を

蒸タオルとハンドソープで拭いた(磨きあげた?)とのこと。

通りで、私が夜に面会した時、母の手足が光っていたはずだ。

明日に期待したい。


母の手

2010年08月28日 | 我が家
病院へ行って母に逢うと、私は必ず母の手を握る。

そこに母の手の温かさがあるからだ。

節くれだった、苦労の人生を表す手。

何年前だったか、農作業の際誤って左手の人差し指の爪の半分から上を、押し切り(手動で藁を切るカッター)で切ってしまった手。

これは“握手”なんかじゃない!

“親と子が手と手を取り合っている”んだと思う。

そのことで、私は私の願いを母に伝えようとしている。

明日、母は再手術を受ける。

私は快復を祈るしかない。


母と犬飼山転法輪寺

2010年08月28日 | 我が家
吉野・蔵王堂の西側の谷底にある脳天さんと聞けば、ある程度イメージが湧くだろう。

私が先日の土曜日、吉野の次に目指したのは、大和五条の犬飼山転法輪寺。

40数年前、私が小学校入学前後に、母はこのお寺で命を救われたのだ。

それと言うのは、突然母の口が開かなくなったのだ。

歯科医院で親知らずの治療を受けた後のことだったかも知れないが、何処が腫れたという訳でもなく、いろんなお医者様に診てもらっても原因不明?

母は口が開かないのだから、何も食べることが出来ない。歯と歯の隙間から米粒や食物を磨り潰したモノを入れて何日も過ごしていた。このままでは・・・ということになり、誰から教えてもらったのか、大和五条の犬飼山へ。

犬飼山に御すがりすると、昭和12年?の水害の際、山を切り崩して、流された道路や堤防の補修工事を行ったことが原因とのこと。その山に住んでいた蛇(神様)?が・・・。毎朝その場所に洗い米と塩と・・・。という話になり、母は翌日から実行した。すると不思議なことに一週間もしないうちに母の口は元通り開いたのだ。

だから今回も大和・五條の犬飼山へ!

母と吉野へ行ったこと

2010年08月28日 | 我が家
昨日、吉野の桜の下を急ぎ足で歩きながら考えたこと。

私は、奈良に住んでいながら、桜の季節に吉野を訪れるのは、昨日で2度目だった。

行って花見をしたい気持ちはあっても、あの交通渋滞や人出の中へは、あえて入りたいとは思わない。

そして、たった一度の前回はというと、私が中学校に入学した年の春、日曜日、母が突然「吉野へ花見に行こう。」と言い出し、私と妹と三人で出かけたときのことだった。

母は私に「中学校の制服(詰襟)を着て出か けるように。」と云った。そして、3人で近鉄電車に乗って吉野へ行った。吉野の山は凄い人込みで、昨日歩いた道も、普通には歩けないほどの混雑だった。

昼食には何を食べたのだろうか?桜一面の山が望める茶店に入り「なんでも好きなん食べや。遠慮したらあかんで!」と母は云ってくれたことだろう。

その帰り、ケーブル駅へと向かう道で、酔っ払い同士が喧嘩をはじめたことだけは、記憶が鮮明だ。中年の男性が胸ぐらを掴み合い、やがて一方の男性が持っていた一升瓶で相手の頭部を殴ったのだ。一升瓶は割れ、中の酒とガラス瓶の破片が周囲に飛び散った。喧嘩を見ていた私もその一部を浴びてしまったのだ。やがて警官が来て事は治まった。帰宅後、母は私の制服をどうしてくれたのかは知らない。私は疲れて眠ってしまったのだ。

もし母に意識が戻ったならば、あの日の吉野のことを聞いてみたい。

母と兄妹3人で出かけたことは、あの日以外には無いからだ。

いったいどうして母はあの日、私たち兄妹を吉野の山に連れて行ってくれたのだろうか?今のこの季節、百姓の仕事も多分忙しかったはず・・・

昨日、吉野の山を9時前に出発し、大和五条の犬飼山、母の実家の墓参りを済ませ、午前中に帰宅。父と共に昼食をとり、その後、私と家人と妹とで病院へ行った。

「写真;蔵王堂」





花散らしの嵐

2010年08月28日 | 我が家
先日、“”の嵐が奈良を通過した。

母も散ってしまうのかと心配したのだが、

何の反応も示してくれなかった母が、

4日ほど前から、僅かながら瞼を震わせ始めた。

そして、ついに目を開けたのだ。

何を見ているのか、見ていないのか分からない眼は、

私が声をかけるとすぐに閉じてしまうのだが、

日に日にその反応は大きくなり、首を動かすまでにもなった。

左手・足も少しは動くのだ。

母は散らなかった。

桜の季節、花よ散らないでくれと願うばかり・・・



春の夢

2010年08月28日 | 我が家
家人が母の夢を見たのだと今朝から言う。

「お母さん、びんずるさんになりやってん・・・

私、どこかのお寺にお参りしてるんやけど、

そのお寺のびんずるさんの顔がお母さんそっくりやねん。

頭を撫でたら笑いやってな・・・」

確かに病床の母は、手術の際に頭髪を剃られ尼僧のようだ。

私も、もう母は、仏さんになったのではないかと思う時がある。

手術の際に、母の身長や体重、血液型を聞かれても、しっかり答えることが出来なかった。

今の母は、150cmなかった身長がさらに小さくなったようで、体重も・・・

私は、この母の身体から生まれてきたことは事実なのだ。

今日、TVで四国・徳島の薬王寺が放映されていた。

四国遍路が懐かしい・・・

「写真;四国遍路・雲辺寺」

茨城と茨木

2010年08月28日 | 我が家
母が倒れて2週間が経過したが、母の意識は未だ戻らず。

今日も母に呼びかけるも、返事をしてくれるのは隣のベッドの爺さんのみ。

その爺さんの反応に、長男は悔しかったのか涙を流す・・・

母のベッドの爺さんと反対側のお隣さんは、51歳の男性。

母より1日前に入院し、この方も意識が戻らない。

ただただ目を開けて眠ったままである。

私たちは、この方の面会の方がどなたも見えられないのを不思議に思っていた。

先日やっと奥様らしき方を見かけた。

少し会話する中で、“イバラギ”の方だと分かった。

てっきり“大阪府茨木市”の方が、訳あって奈良のこの病院まで運ばれたのだと、勝手に思い込んでしまった。

さらに話をしていくと、“茨城県”の方???

「なんで奈良で入院なん?」

どうやら、仕事で奈良に来ておられて入院ということになったらしい。

“イバラキ”と“イバラギ”は違うのだ!

日に日に母の反応が無くなっていく、

母にアイロンをあててもらっていたYシャツも、今日着たのが最後の1枚だった。

約束

2010年08月28日 | 我が家
先日、こんな“約束”を見かけて一人いろいろ考えていた。

我が家も私が小学生の頃までは、両親に頼んで犬を飼っていた。

そのとき、母ともいろんな“約束”をしたよなぁ・・・

それじゃぁ・・・母と私との“親と子の約束事”は?

それは、はっきり決めてなかったけど、

まだまだこれからも時間があると思ってた・・・

「犬と私の10の約束」

1. 私と気長につきあってください。
2. 私を信じてください。それだけで私は幸せです。
3. 私にも心があることを忘れないでください。
4. 言うことをきかないときは理由があります。
5. 私にたくさん話しかけてください。
  人のことばは話せないけど、わかっています。
6. 私をたたかないで。本気になったら私のほうが強いことを忘れないで。
7. 私が年を取っても、仲良くしてください。
8. 私は十年くらいしか生きられません。
  だからできるだけ私と一緒にいてください。
9. あなたには学校もあるし友だちもいます。
  でも私にはあなたしかいません。
10. 私が死ぬとき、お願いです、そばにいてください。
  どうか覚えていてください、私がずっとあなたを愛していたことを。

「写真;吉野神宮の狛犬」





花起し

2010年08月28日 | 我が家
奈良も桜が満開です。

そんな風景を見ながら、昨日も病院へ。

ICUで、母に桜の花が満開であること。明日から4月になることを告げた。

母は目を閉じたまま何も返事をしてくれない。

以前はもっと手足を動かしていたのに・・・

我々に返事をくれたのは、隣のベッドに寝ているお爺さん。

「もう桜、満開やねんでぇ。早よう目覚まさんと、桜終わってしまうがなぁ。」と、母に声をかけると、

隣のお爺さんは、「そうか、もう満開なんや~ 早よう退院して花見にいかんなあかん!」と返事をしてくれる。返事が出来るのが羨ましい・・・

そんなとき、看護師さんが母の枕元で空き缶を床に落として大きな音をたてた。

我々に「すみません!」と謝ってくれたのだが、私はそれどころか、もしかしたら母が今の音で目を覚ましてくれるのではないかと期待した。

しかし、無反応・・・

「吉本新喜劇に出てくるような、金盥のもっと大きいのん落として母の目を覚ましてよ!」と看護師さんにお願いした。

病院からの帰り、親父を誘って母を除く家族5人で中華を食べた。半分以上自棄食いだった・・・

なんとも云えない、不安定な春の天気が続いている。


ICUと若草山

2010年08月28日 | 我が家
母の寝ているICUの部屋からは若草山がよく見える。

奈良の町並みを探すと、大仏殿も小さく見えるのだ。

母は何も話してはくれないので、

たまたまその時、そこにいた看護師さんに

「この部屋からは、若草山の山焼きが綺麗に見えますよね。」と声を掛けた。

看護師さんは「山焼きってもう直ぐなのですか?」と聞き返してきた。

私も疲れていたので、返事をしないで困った顔をしていると、

「山焼きって夏なんですよね!」って云ってきた。

私はさらに困ってしまった・・・

私は母が倒れたあの日以来、あの日、何故“高野山”に参ろうか、

家族総出の山芋植えのために延期になっていた“魚釣り”に行こうか、

天候との加減で非常に悩んだのかということばかりを不思議と思い出しては考えている。

高野山へは、やがては母に着せようと思っていた(四国遍路で八十八の印をもらった)白衣に、最後の高野山の印を貰おうとしていたのだ。

“赤心慶福” 赤福のこと

2010年08月28日 | 我が家
大きな出来事があると、偶然とか必然とか運命とかについて考えてしまう。

母が倒れる2日前の18日、仕事から帰ると食卓に“赤福”があった。

「珍しいなぁ~ どうしたん?」と母に聞くと、

何年かぶりに遠くで暮らしている母の一番下の弟が、我が家を訪ねて来たのだという。

「久しぶりに彼岸やからお墓参りに帰って来たんやて・・・

 そのついでに、顔見に寄ってくれたんや・・・いっぱい喋ってなぁ・・・」

母は嬉しそうに話し出した。

その後、母の話題は21日に予定している兄の入院・手術のことに・・・

(母は4人兄弟の2番目、男3人に女1人の兄弟。)

その見舞いにいつ行くのがよいか、すぐ下の弟とも電話で連絡を取り合ったのだそうだ。

私はそんな話を聞きながら、“赤福”を食べた。

本当に久しぶりに食べる懐かしい赤福の味だった。

母が言うには、“赤福”に難しいことを書いた紙が入っていたとのこと。

わざわざその紙を居間まで取りに行ってくれた。

読むと“安心してお召し上がりいただける「赤福餅」づくりに向けて”という内容だった。

印象に残ったのは“赤心慶福”という文字。

私は昨夜も病院に泊まり、眠り続ける母の元から先ほど帰宅した。

何処を探しても、“赤福”が見当たらない。

残っていたのはPCの前に置いたあの紙だけ・・ ・

甘いもの好きの母が、全部食べたんやろか?

母の兄には、母が20日に倒れたことをまだ伝えていない。

皆さんの温かいコメント感謝しています!