e411y(回顧録)

e411yの旅でのことを書き残しておきたいと思います。

千早城

2010年08月30日 | 
あの日,ざる蕎麦を食べながら「千早城」を研究。

すると600段の急な石段を上らなければならないことが分かった。

そでに今日は,「下赤坂城」と「上赤坂城」に登っている。

さらにこれから600段の石段・・・

今,ざる蕎麦を食べているお店から登山口まででも,結構な距離があるしなぁ~

資料を読むと,「千早城」には,現在 「千早神社」が建てられていて,城址を残す場所は少ないらしい・・・

お城に登るのやめとこかなぁ~

お店の下を流れる谷下の流れは,釣り堀になってるようやし,マス釣りもええやろなぁ~

釣ったマスを焼いてもらって,冷えたビールをグイッと・・・

お店から登山口へとブラブラ歩きながら,いろんなことを空想してた。

600段の石段?

予想以上にキツかった~~!

以下は資料の文

【千早城は、楠木正成の挙兵・籠城の地として余りにも有名です。上赤坂城を楠木氏の本城とすれば、こちらは詰城となります。赤坂城砦群と一体的にとらえて千早・赤坂城砦群の奥の拠点として位置付けることも出来ますが、平野部に対する眺望がきかず、山間に隠れた存在で、上赤坂城のような地域支配機能はありません。

城は、金剛山の一支脈が西に流れて、その末端が一つの半独立峯を成している標高673,9mのところにあります。周囲を妙見谷、風呂谷 、千早谷の深い谷に囲まれ、南東部一か所のみが険しい山路で金剛山頂に連絡しています。府道から500段程の段を登ると四の丸に達します。そこからは三の丸、二の丸へと続き、二の丸跡には千早神社があり、八幡大菩薩とともに楠木正成・正行父子が祭られています。その後方は、俗に本丸と呼ばれ、西寄りが一段高く石垣の段がありますが、これは近代の楠権現の跡です。しかしその回りを本丸続きの帯曲輪が取巻き、二の丸と三の丸の鞍部にはかつて空掘跡があったといわれていますが、今は確認できません。四の丸の西下には大手道を両側からは道がまわり、その下のルートで結ばれる南尾根の曲輪には府立存道館、府立山の家が建って変形されてい ます。

この城は、元弘の変に際して楠木正成が下赤坂城を放棄したあと、翌年の元弘2年(1332)に築城したといわれています。元弘3年には鎌倉幕府の大軍がこの城に攻め寄せ、楠木軍が様々な奇策を用いて戦った様子が「太平記に記されています。籠城のための水は、山伏が使う金剛山中の秘水や雨水を蓄え、万全の策を取ったようです。兵糧は、金 剛山を越え間道伝いに奈良や和歌山から、農民・兵士・山の民により運び込まれたようです。軍資金は、所領七千貫を主なものとし、摂津・河内から大和に至る交通の要所を支配下におき、分業・交通のルートを掌握して冨を蓄積しました。その他にも水銀の採掘(くろとが谷)等により得たようです。

正成亡き後、南朝軍の拠点として正行・正儀・正勝がこの城に籠りましたが元中9年(1392)5月、足利義満が兵を遣して金剛山を攻め、正成がこの城を築いてからおよそ60年後、正勝の時代に攻め落とされました。】

「写真;千早城址」


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