昔、上野盆地の北側に聳える丘の上に「平楽」と云う伽藍があったが、1581年(天正9年)織田信長の「伊賀の乱」で焼かれて、1585年(天正13年)筒井定次が大和郡山より伊賀に移って築城したのが始りで、1608年(慶長13年)彼が失政を理由に改易となった後、大阪方に備え、築城名人藤堂和泉守高虎が城郭を拡張し、西側に日本一高い石垣を築き、また、町屋を南へ移し、完全武装の城下町を造ったけど、1612年(慶長17年)9月2日竣工直前の天守閣が暴風雨で倒壊し、その後、大阪夏の陣で豊臣方が敗れ、城の必要性がなくなりました。
なお、城は津の支城で、1615年(元和元年)武家諸法度による城普請の禁止により、再び建てられる事はなく、1640年(寛永17年)から城代家老の藤堂采女(服部半蔵の甥)が預り、明治維新を迎え、そして、昭和10年川崎克代議士が私財を投じ、3年の歳月をかけ、往時の基台に桃山建築の粋を集めて、三層三重総丈76尺(23m)を模擬復興され、我が国で最後の木造天守閣です。
碧緑の上に見える城郭の美観は、あたかも鳳凰が翼を休めた安らぎを思わせるので、雅名を「白鳳城」と呼ばれ、高虎が自ら縄張りをした濠は深く、築かれた石垣は高さ31mで日本一高く、梯郭式の堅固な城は昔五層の大天守閣でした。
なお、城は津の支城で、1615年(元和元年)武家諸法度による城普請の禁止により、再び建てられる事はなく、1640年(寛永17年)から城代家老の藤堂采女(服部半蔵の甥)が預り、明治維新を迎え、そして、昭和10年川崎克代議士が私財を投じ、3年の歳月をかけ、往時の基台に桃山建築の粋を集めて、三層三重総丈76尺(23m)を模擬復興され、我が国で最後の木造天守閣です。
碧緑の上に見える城郭の美観は、あたかも鳳凰が翼を休めた安らぎを思わせるので、雅名を「白鳳城」と呼ばれ、高虎が自ら縄張りをした濠は深く、築かれた石垣は高さ31mで日本一高く、梯郭式の堅固な城は昔五層の大天守閣でした。
最近TV番組でお城を訪ねる番組があります。
私,興味津々観ています!