島国で生まれ育った私にとって、陸路で国境を越えるという行動はいつも特別な気持にさせてくれる出来事です。
ヨーロッパのように統合が進んで国境を越えるにも特別な手続きや、両替などの作業がひつようない地域であっても、境界を越えると町並みが変わったり、食べ物が変ったりして、国が変った事を感じさせてくれるところもあれば、国境に近づくにつれて少しずつ文化の変化が感じられ、そのまま連続的に次の国へ繋がっていくところや、境界線を越えても何ら変化を感じない国境など、いろいろあります。
20年以上前に通ったパキスタン-イラン国境のタフタンでは、国境の壁よりイラン側には夜になると煌々と明かりが燈っているのに、パキスタン側では漆黒の闇。翌日国境を越えると3ヶ月かけて少しずつ覚えてきたウルドゥー語がいきなり全く通じなくなって動揺させられた記憶があります。川など自然の障害を挟んだ国境では文化の明確な違いがあるのは一般的ではありますが、完全な地続きの国境であそこまで鮮明に色が変った国境も珍しい事だったかもしれません。
考えてみれば連続した大地であるのに、人間が引いた境界線で明確に文化や言葉が切り替わる事の方が不思議な事だとも思えます。文化の違いに基いて国境が引かれたのか、国境が引かれた事からぞれぞれの文化に違いが発生していったのか。おそらく、文化の違いと国境線が上手くかみあっていない地域もある事から考えると前者が正解なのでしょうか。
文化の違いとは関係なく、地下資源の存在などに基いて他国が勝手に国境を引いてしまい、それを継承している国境もあります。こういった所では、国境が出来たのがそれほど昔の事でないためか、国境を挟んで両側に全く同じ言語、文化が広がっていて、何とも不自然な国境が形成されます。
明白に文化が違うエリアの境界線上にある国境を越える時は、国境の存在の必要性を強く感じますし、国防とかそういった概念も理解できるような気がします。そして、明確な変化の無い国境を越える時は、国の違いとか、国防とか、そういった事自体が、その国境を築いた”他国”の昔の利権の亡霊の仕業と感じる事もあります。国境とか国家という概念を強く肯定する気持と、否定する気持の間を行たり来たりしてしまいます。
そして、国境はヨーロッパのように統合への道を歩み始めた所もあれば、新たな国境が引かれて国家が生れたりもしています。
私は関西出身なので、たまに関西へ向けてバイクや車で移動する事があります。そんなときは、途中で2度ほど”国境を越えた”と感じる場所があります。そういう視点に立てば、日本も1つの国境の中に何カ国分かの文化を入れ込んでいるとも思えます。
ある日、関西の人間が関東勢からの侵略の歴史と支配に気づき、ナショナリズムに目覚めて独立紛争に発展、内戦に突入するなんて事は日本では考えられませんが、そんな事が毎日のように起っているのが世界の国境。
ヨーロッパのように統合が進んで国境を越えるにも特別な手続きや、両替などの作業がひつようない地域であっても、境界を越えると町並みが変わったり、食べ物が変ったりして、国が変った事を感じさせてくれるところもあれば、国境に近づくにつれて少しずつ文化の変化が感じられ、そのまま連続的に次の国へ繋がっていくところや、境界線を越えても何ら変化を感じない国境など、いろいろあります。
20年以上前に通ったパキスタン-イラン国境のタフタンでは、国境の壁よりイラン側には夜になると煌々と明かりが燈っているのに、パキスタン側では漆黒の闇。翌日国境を越えると3ヶ月かけて少しずつ覚えてきたウルドゥー語がいきなり全く通じなくなって動揺させられた記憶があります。川など自然の障害を挟んだ国境では文化の明確な違いがあるのは一般的ではありますが、完全な地続きの国境であそこまで鮮明に色が変った国境も珍しい事だったかもしれません。
考えてみれば連続した大地であるのに、人間が引いた境界線で明確に文化や言葉が切り替わる事の方が不思議な事だとも思えます。文化の違いに基いて国境が引かれたのか、国境が引かれた事からぞれぞれの文化に違いが発生していったのか。おそらく、文化の違いと国境線が上手くかみあっていない地域もある事から考えると前者が正解なのでしょうか。
文化の違いとは関係なく、地下資源の存在などに基いて他国が勝手に国境を引いてしまい、それを継承している国境もあります。こういった所では、国境が出来たのがそれほど昔の事でないためか、国境を挟んで両側に全く同じ言語、文化が広がっていて、何とも不自然な国境が形成されます。
明白に文化が違うエリアの境界線上にある国境を越える時は、国境の存在の必要性を強く感じますし、国防とかそういった概念も理解できるような気がします。そして、明確な変化の無い国境を越える時は、国の違いとか、国防とか、そういった事自体が、その国境を築いた”他国”の昔の利権の亡霊の仕業と感じる事もあります。国境とか国家という概念を強く肯定する気持と、否定する気持の間を行たり来たりしてしまいます。
そして、国境はヨーロッパのように統合への道を歩み始めた所もあれば、新たな国境が引かれて国家が生れたりもしています。
私は関西出身なので、たまに関西へ向けてバイクや車で移動する事があります。そんなときは、途中で2度ほど”国境を越えた”と感じる場所があります。そういう視点に立てば、日本も1つの国境の中に何カ国分かの文化を入れ込んでいるとも思えます。
ある日、関西の人間が関東勢からの侵略の歴史と支配に気づき、ナショナリズムに目覚めて独立紛争に発展、内戦に突入するなんて事は日本では考えられませんが、そんな事が毎日のように起っているのが世界の国境。
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