前回、 カレン族の村の精霊について触れてみましたが、実は私はカレン族の村に居たけれども、彼らの信仰について詳しく知っているわけではありません。なぜならば、カレンの言葉はほとんどわかりませんので、コミュニケーションできる内容は非常に限られていたのでした。
ただ、彼らの行動などを観察していて、彼らの信仰するものが私の中のイメージでは神というよりも精霊という言葉の方が上手くあてはまるのです。
そんな事を書いていて思ったのは神さまと精霊の違いについて。
イメージとしては精霊というのは神と同じように人間の力を越える力を有しているのだけれども、人間の事を思いやってくれるのではなく、時にはイタズラ心を起こして人間を苦しめたりもする。ただ、人間を助けてくれる事もある存在という感じで、どちらかというと人間の営みとは全く別の位置で行動していて、その行動が人間にとって害をもたらす時もあれば、利をもたらす事もあるという感じでしょう。
一方、神というのは人間の営みを常に気にかけて、それに対して助けてくれたり、導いてくれたりする存在として登場すると感じます。
人間が病気になった場合は、精霊信仰では、この病気も精霊の仕業。(悪霊の場合もあるわけですが)司祭(シャーマン)は精霊にイタズラを辞めてもらうように祈ります。そして病気を直してくれるのも精霊です。そこには、その人が悪事を働いたからとか、そういう因果関係とは関係のない、"気紛れ"な出来事として幸、不幸が登場します。
このイメージそのものが、人間を取り巻く大自然と非常に上手く一致すると思いませんか。だから、彼らの信仰は自然そのものを信仰していると感じたわけです。
一方、神という存在で同じ事を考えるときは、病気は悪魔や悪霊の仕業。直してくれるのは神の力。
ここが面白いところで、カレンの村での生活で少し触れたように、あのような小さな、何もない、財産意識もない村では善と悪という区分け自体があまり上手く定義できないのです。いや、悪事というのがあまり働きようのない事となってしまうのです。盗みを働こうにも、誰も財産を持っていないわけですから。
神という存在は"善"とか"悪"とかを定義する事から出てくる存在なのだなと感じた次第です。
こういう事は、"迷信"としてながめてしまえば、それはそれで過ぎ去っていく事なのですが、いろいろなチャンネルを開けて旅してみれば、オモシロイ事は世の中に沢山あるものだなと感じるのです。
ただ、彼らの行動などを観察していて、彼らの信仰するものが私の中のイメージでは神というよりも精霊という言葉の方が上手くあてはまるのです。
そんな事を書いていて思ったのは神さまと精霊の違いについて。
イメージとしては精霊というのは神と同じように人間の力を越える力を有しているのだけれども、人間の事を思いやってくれるのではなく、時にはイタズラ心を起こして人間を苦しめたりもする。ただ、人間を助けてくれる事もある存在という感じで、どちらかというと人間の営みとは全く別の位置で行動していて、その行動が人間にとって害をもたらす時もあれば、利をもたらす事もあるという感じでしょう。
一方、神というのは人間の営みを常に気にかけて、それに対して助けてくれたり、導いてくれたりする存在として登場すると感じます。
人間が病気になった場合は、精霊信仰では、この病気も精霊の仕業。(悪霊の場合もあるわけですが)司祭(シャーマン)は精霊にイタズラを辞めてもらうように祈ります。そして病気を直してくれるのも精霊です。そこには、その人が悪事を働いたからとか、そういう因果関係とは関係のない、"気紛れ"な出来事として幸、不幸が登場します。
このイメージそのものが、人間を取り巻く大自然と非常に上手く一致すると思いませんか。だから、彼らの信仰は自然そのものを信仰していると感じたわけです。
一方、神という存在で同じ事を考えるときは、病気は悪魔や悪霊の仕業。直してくれるのは神の力。
ここが面白いところで、カレンの村での生活で少し触れたように、あのような小さな、何もない、財産意識もない村では善と悪という区分け自体があまり上手く定義できないのです。いや、悪事というのがあまり働きようのない事となってしまうのです。盗みを働こうにも、誰も財産を持っていないわけですから。
神という存在は"善"とか"悪"とかを定義する事から出てくる存在なのだなと感じた次第です。
こういう事は、"迷信"としてながめてしまえば、それはそれで過ぎ去っていく事なのですが、いろいろなチャンネルを開けて旅してみれば、オモシロイ事は世の中に沢山あるものだなと感じるのです。
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