橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

【予約受付中】「アフロで火鉢&七輪カフェ」in千駄木ケープルヴィル 1月17日(土)開催

2015-01-06 03:11:19 | Weblog

今回はカフェとのコラボなので、予約制で行います。

一度に入れる人数が限られていますので、1回15名で2回開催予定です。詳細は以下を。

 

開催日時:1月17日(土)

     第一部 12時30分〜 第二部 17時00分〜

     予約制:各回15名ずつ

     一部、二部どちらかを選んでご予約下さい。

     1回2時間程度を考えています。


場所:写真館&カフェ「ケープルヴィル」(1階がカフェ、2階が写真館)

      東京都文京区千駄木3-42-7    

 

料金:炭チャージ500円

          +焙りもの&軽食代1500円

   *焙じ茶は炭チャージ代に含まれております。

      アルコール類はお店のメニューより別途ご注文下さい。

   *アフロヘアにて参加の方は炭チャージ500円のみサービス

    ただしご自宅からアフロでおいで下さい(笑)

 

内容:【カフェにて】

    <能登珪藻土のプチ七輪を使って>

    *焙烙(ほうろく)でほうじ茶作り(お茶飲み放題)

    *焙りもの各種

     原木椎茸(愛媛県内子町産)、梅干し、海苔、

     干物もしくはジャコ天(愛媛県八幡浜産)←どちらにするか検討中

    <その他軽食>

    *炊き込みご飯と原木椎茸汁

 

 

【写真館にて】

「アフロで火鉢」撮影会:

2階の写真館に上記写真の火鉢のある和室セットと写真で私たちがかぶっているアフロウイッグ(色ものも追加)を用意しておきます。アフロで火鉢写真を撮りたい方はご自分のカメラで自由に撮影して下さい。写真館のプロのカメラマンに撮影してもらいたい方は有料で承ります(料金は当日お知らせします)。


予約:

1部2部どちらが希望かを添えてケープルヴィルまで、電話かメールでお願いします(以下ウェブサイト参照)。

*予約人数が各回15名に達した場合はそこで締め切らせていただきます。

*私(中村有里)とFACEBOOKの友達もしくはTwitterの相互フォロー状態の方は私の方までメッセージやDMでご連絡下さっても結構です。

 

 ケープルヴィル・ウェブサイト http://capleville.com

 

【ご注意】

カフェ当日、ウェブメディアの「Shimicom」さん(http://www.shimicom.net)が火鉢カフェの取材に入る予定です。会の途中、時々、写真や動画を撮影されると思いますので、映り込みたくない方は事前にお知らせ下さい。会の雰囲気は損なわない範囲での取材をお願いしますので、何卒ご容赦くださいませ。火鉢クラブの設立趣旨である、火の扱いを知る大切さ、炭焼きによる森林再生や環境保全、炭火の温かさと火を囲む楽しさなどを広く伝えるために、取材オファーを受ける事にしました。何卒ご理解をお願い致します。

 


あけましておめでとうございます!1月17日(土)火鉢カフェ開催

2015-01-02 12:36:26 | Weblog

あけましておめでとうございます
今年はもっと活動するぞ~。
まずは「アフロで火鉢カフェ」を1月17日(土)に開催!
千駄木の写真館カフェ「Caplevilleケープルヴィル」にて。
詳細、近日中に告知します(今回は予約制になります)。
アフロじゃなくてももちろん参加出来ます。アフロのかつらを置いておきますので、希望の方はアフロで火鉢にあたる姿を撮影することも可能。ご自分の写メはもちろん、記念にプロに撮ってもらうこともできます(有料)。ケープルヴィルは2階が写真スタジオになっており、以下の写真はそこで撮影しました。



なぜ今回の火鉢カフェがアフロなのかは、またあらためて。
でも、撮影でアフロヅラをかぶったら、かなり気分が上がりました!
やはり、アフロ楽しい!
というわけで、今年もよろしくお願いします。

ケープルヴィルHP
http://capleville.com/


昔の名前は「ナンシー関のいない世界で」

2014-12-30 02:39:22 | Weblog

テレビ業界というのはオトナな世界だから、同業者を表立って批判する人はあまり見かけない気がする。批判すること=無視、関わらない、だろう。一つ前の投稿で、百田批判とかしながら、結局、いつまでたっても自分はテレビ業界に向いてないなあ…と思ったりしている。

そんでもずるずると(細々とが正しいか)テレビの仕事をしているのは、他の事が長続きしないのと、自分がテレビや書物からもらった発見や感動やモチベーションを世の中の人にも感じてもらいたいという思いもある。しかし、それも利己的といえば利己的…。マツコが「やりたいを仕事にするとか言ってる女性誌、クソだよ」と言ってたらしいが、結局やりたい仕事って利己的なのだ。人のためも自分のため。自分が影響を受けた人や興味のある人に会いたいとかいうのももちろん利己的。

このブログの以前のタイトルは「ナンシー関のいない世界で」だった。ナンシーは正しく批判するために、テレビに出る人とは極力会わなかった。メディアから感じるものを正しく判断し、正しく伝えるためには、嫌いなものはもちろん、好きなものこそ身近にしてはだめなのだ。

先日、パルコミュージアムで行われたナンシー関の消しゴム版画展に行った。抜粋され、展示された傑作コラムを読みながら、その慧眼が失われた穴はテレビにとって、いや日本にとって、あまりにも大き過ぎるとあらためて愕然とした。

私にナンシー関のような文章は書けない。その文章を凄いと思う力しか無いが、やはりここが私のテレビとの距離感の基準なのだと思う。そして、そんな私がテレビ業界の中で働いていていいのか…という疑問は今も自分の中でくすぶっている。

2015年の手帳の中表紙にナンシー関の消しゴム版画を押してみた。

テレビとは何なのだろう。今、”EXテレビ”があるとしたら、それはどういうものなのだろう。

 


百田尚樹と上岡龍太郎

2014-12-30 01:39:44 | Weblog

百田尚樹「永遠の0」パクリ疑惑がネット上を賑わせている。この人があのテレビ番組「探偵ナイトスクープ」のチーフ構成作家だというのは、テレビやってるものにとって嫌な現実だ。あの番組は面白いのに(最近は見てないけど)なぜにあの百田氏が作っているのだ…。

探偵ナイトスクープ初代司会の上岡龍太郎氏が現役時代、90年代の実験的番組「EXテレビ」で、日本の非武装中立、丸腰論を唱えていたのをちょっと前にYOUTUBEで見た。その上岡龍太郎はテレビの現場を離れて久しい…。今こそ上岡龍太郎と仕事がしたいが、そんなことが今のテレビで可能とは思えない時代状況になって来た。まさにEXテレビな場所を探さねばならない。

 


「アフロで火鉢カフェ」妄想中。

2014-12-17 02:23:50 | Weblog

年開けたら久々に火鉢カフェやりたいなあ。

「アフロで餅を焼く」(自由律)
アフロで火鉢カフェを妄想中。


レキシ来てくんないかな~ ♪縄文土器、弥生土器どっちが好き?
私は火焔土器が好きです。火鉢も七輪も土器です。木もあるけどね。
ご存じない方へ~レキシって日本史の事だけ歌ってるミュージシャンです。

私のFacebookページ「火鉢クラブ」に久々に投稿。https://www.facebook.com/pages/火鉢クラブ/120985921331400


総選挙雑感~やっぱ政界再編しかないよなあ

2014-12-15 03:16:25 | Weblog

与党348議席と事前予測は言ってたから、それよりはマシな結果となったわけである。とはいえ、与党圧勝。そして、予想どおり共産党の躍進。右と左の極が数を増やしている。これは、脱原発、反改憲、反集団的自衛権、反秘密保護法、反TPPと考える人々が共産党に流れたと見るべきだろう。もはや社民党はこうした人々の受け皿にはなりえないと判断され、その他の野党で、これら全てにあてはまる党がないからである。民主党支持が減っているのは、結局、官僚に籠絡されて、自民党と変わらない政策に堕してしまったことが大きい。自民党と政策的に変わらないのなら、誰も野党に票など入れはしない。

この選挙が語っているのは、早く政界再編をしろということである。
自民党の中にも脱原発、反改憲を思いながら、現政権に冷や飯を食わされている議員が多数いる。反対に、民主党の中には原発再稼働容認、改憲勢力が多数いる。上記に上げた争点全てで共闘出来るというのは難しいが、脱原発で共闘出来る人は多いはずだ。

民主党の中の改憲勢力、原発再稼働容認派が離党して現政権的な勢力とくっついたとしても、反対に、自民の河野太郎や野田聖子のような人は外へ出て、民主のリベラル勢力とくっつけば、対抗勢力となり得る。顔が売れていて、実力もあるのに、安倍政権の下で冷や飯を食っている人たちは外へ出る事で、浮上する事ができるのではないか。その時、公明党がどっちにつくか…。脱原発に前向きな小泉進次郎も鍵を握るだろう。断然、脱原発勢力の方がスター揃いな気がするんだけど…。みんなそろそろ本当に信じている事を表に出して行動すべきときなのだ。そこをはっきりしないから、組織票がものを言う。

脱原発勢力のトップは細野豪志あたりでいいと思う。今回の選挙後の発言を聞いていて感じたのは、ちょっとイケメンびいきのようだが、細野豪志と小泉進次郎はやはり次世代のリーダーになりうるということで、この2人を担いで、そこに実力があるのに冷や飯を食っている政治家を結集する事で、今の子供だましな政権の稚拙さを浮き彫りにする事ができるのではないだろうか。

小泉進次郎は目が笑ってないのが恐いから、ちょっとまだ警戒したいけど、池上さんの挑発にも冷静に受け答えする姿は、メディアに対してぶち切れる安倍さんや現政権の腹の据わらない大臣たちにの幼稚さに比べたら、あの若さで大したものである。

初の原発再稼働を強行しようとしたときが最初のチャンス。自民党から脱原発派が離党して、野党と一緒に内閣不信任。集団的自衛権、改憲がらみの動きがあったらまた再編のチャンス。

まあ、私のごとき者がいわずとも、みなさんそんなこととっくにお分かりだろうが、最後は勇気なのだと思う。もちろん有権者の側の勇気も必要だ。


種を蒔く人・菅原文太の野菜

2014-12-02 13:22:09 | Weblog

菅原文太さんが亡くなりました。
以下の写真は文太サンの農園の野菜です。

過去、何かの折に(忘れちゃったのですが)テレビの出演交渉した際、事務所に所属せず、ご自宅にFAX連絡だったことを覚えています。そのとき、出演はかなわなかったのだけれど、近年では近くのデパ地下の野菜売り場で文太サンの作る野菜にお目にかかり、その美味しさに大ファンになっていたところでした。山梨の富士山が見える場所にある「竜土自然農園おひさまの里」という農場。ラベルに印刷された「代表・菅原文太」の文字にしびれます。

野菜を作っているという話は耳にしていましたが、実際にこうして大手の店にも流通しているとは…。以来、その店に行くたび、文太の野菜を探しては買っていました。それまで値段の高い有機栽培の野菜にはあまり手を出していなかったのですが、文太の野菜を特売で買って、その美味しさを知って以来、定価でも買うようになりました。蕪が出ていることが多かったですが、下の写真にあるスイスチャードのようなハイカラな野菜もありました。どれも味がしっかりして美味しかった。しかし、今年、その某デパート地下食のリニューアルに伴い、文太サンの野菜が姿を消してしまった…。直販ではなく、一度築地の市場に出たものを仕入れているので、あまり数が出ないと手に入らないから、いつもあるわけではないんです…と店員さんは言われていましたが…。

文太さんは野菜の種の話にも詳しく、子孫を残せないf1種に警鐘を鳴らしていました。私もかつてやっていた番組で在来野菜について取り上げ、f1種の種についても言及しましたが、まだまだ広くは知られていません。

今、私の家には都会から移住して自然農法を始めた若い人の作る無農薬無肥料の野菜が毎週送られて来ています。文太サンの奥様が、夫は「種を蒔いていった」とおっしゃっていましたが、私もそういう意味で種を蒔かれた一人です。

「食を変えることは世の中を変えることに繋がる」
こう信じてまずは自分の食から変えていこうと思っています。
まずは身体にいい食べ物とは何か、そしてそれが流通するための農業の構造とはどういうものか、そういうことに真剣に取り組んで行けば、自給率の問題や、食の安全の問題だけでなく、膨大な医療費削減や派遣労働の問題なども解決の糸口を見いだせるのではないか…。
人間は生きるために食べる。食べることはある意味生きるすべてでもある。そこに思い至るとき、社会は少しずつ住みやすい場所になっていくのではないか。そう思います。

文太サンの農場には一度、伺ってみたいと思っていました。あわよくば取材出来ればと。農場で文太サンに会うことはもうかなわないけれど、彼が残した農場の野菜はまだ食べられる。私もf1種にならず、文太サンがやろうとしていたことを受け継ぐ、在来種でありたいと思います。

ほんとうに文太の野菜、美味しかったんですよ~!
今、どこで買えるんだろう。


最近の「朝まで生テレビ」は出演者がつまらない

2014-08-30 07:06:19 | Weblog

「朝まで生テレビ」を久々につけていた。データの参照が多いなあとあらためて思った。30年前の番組開始当初の朝生はこんなにデータを提示していただろうか?大島渚と野坂昭如が喧嘩していた記憶しか無い。

それにしても、当時のただの喧嘩みたいなエンタメ討論よりも、今の討論の方が不毛な気がするのはなぜだろう。データをを出す事で分かりやすくなるような気がするが、結局、議論を細分化するばかりで、その問題を俯瞰する大きな視点で語る事を阻害してしまっている。

私たち視聴者はテレビの中で開陳される論客の見方を理解するのに必死で、語られている問題を自分のこととして引き寄せて考える余裕などない。問題の当事者ではなくただの傍観者だ。ここ数年の朝生が、見終わって、結局何を話したのかまったく記憶に残らないのは多分そのせいだ。

いつの頃からかテレビでは「専門家」でない人が討論番組等にあまり登場しなくなった。今の朝生は政治家や学者やNPO関係者や時には経営者、そんな人ばかりが自分の得意分野の「データ」や「情報」を携えて登場する。小説家とか映画監督とか思想家とか、何考えてんだかよくわからないような人達は呼ばれない。自分の感情や感覚から意見を言うような「非科学的」な人は、テレビで発言するのは適切ではありませんと思ってるかのようだ。

そんなわけで、今日は前半、金融政策と財政政策の話ばかりしていた。「数字」で経済をコントロールしようとする話だ。でも、本当にコントロールなんてできるのか…と「非科学的」な私は思う。

「実際の経済」と「経済学が考える経済」はイコールではない。「実際の人間の体の機能」を「医学」が完全に把握できているわけではないように、実際の経済の複雑さを経済学者がすべて把握出来るわけはないのである。ある程度のコントロールはできても、コンピューターにかならずバグが出るように、実際の経済にはバグが起こりうる。コントロール可能だったはずの「原発」にも事故は起こった。「科学」は「自然のすべて」を完全に把握出来ているわけではないのだ。

データでわからないことを、これまで人間は経験知や直感で補って来た。そういう意味で、最近の朝生にも、自らの体験や感覚に忠実な論客がいてもいいんじゃないだろうか。

ただのエンタメにもみえるかつての大島渚と野坂昭如の喧嘩であったが、そこにはもっと本気があった気がする。数年前にブログにとり上げた東浩紀の退場事件も同じく。

「客観的なデータに基づいた冷静な意見」というのは基本ではあるけれど、時に、自分の本音をまったく棚に上げるという愚挙をおかす。もちろん本音ばかりがいいわけじゃない。けれど、「自分の気持ち」というものを無視し、合理性とか数字の整合性だけで判断した意見は、こと「経済」という人間の営みの総体を分析する分野においては間違いを犯すと思う。

自分がお金を稼いだり、使う時にも、カッとなったり、にやにやしたり、卑屈になったりと、非合理な態度をとってしまうのが人間なのである。そんな「経済」を理解するときに、そういう変数を考慮しないのはおかしい筈なのだ。

かなり強引な論旨の展開になってしまったが、結局言いたいのは、今のパネリストたちが、常に田原さんの進行や提示するテーマにしたがって、話の前提を違える事なく、良い子の意見を言ってていいのかってことだ。あなたの本当に言いたい事はこれなのか?本当は何が言いたいのだ、ぐだぐだになってもいいから言って欲しい。あまりにも皆が、われこそは「正しそうな」ことを言おうとしているように見えるので、そんな破壊願望的なイライラを覚えてしまうのだ。いや、冷静さは大切なんですけどね…。

だとしたら、私自身が今見たいと思う討論のテーマはどういったもので、それを語るのはどういう論客がいいのか。その論客を観衆の前に引っ張り出すにはどうしたらいいのか…?それとも、もはやすべての討論は不毛なのか…。

次回はそんなことを考えてみたい。

って、次回あるのか…


クリエイションの自由を勝ち取るための「アンチ・ウォー」~コムデギャルソン・メンズコレクション

2014-07-29 12:18:19 | Weblog

6月に開かれたパリコレのメンズコレクションでコムデギャルソンのテーマが「アンチ・ウォー」だったのだそうだ。そのことについて書かれたこんな記事にfacebookのTLで出会った。

「コムデギャルソンが掲げた反戦の深刻さ」http://www.asahi.com/and_w/fashion/SDI2014072516411.html

常に服で何かを語ることを拒否して来た川久保玲がこうした具体的なテーマを掲げたことにこの記事の筆者は衝撃を受け、この時代状況の中、明確なテーマを語るほかなかった川久保玲は不本意だったろうと書いている。

数年前から、川久保玲はファッションのグローバル化に対し、クリエイションの自由を奪うものとして警鐘を鳴らし続けていた。店舗面積あたりの売り上げですべてを決める百貨店の昨今の方針など、すべてが金勘定の世界にも違和感を述べていた。

彼女がインタビューなどで吠え始めていた5年前、ジル=サンダーがユニクロと組んだ+Jが登場し、それをジルはファッションの民主化と呼んだ。廉価になって多くの人に自らの服を着てもらえるから。最初のシーズンの服の完成度は驚くほどで、私も買ってしまったけれど、結局ユニクロとジル=サンダーの蜜月は長くは続かなかった。その裏にどんな事情があったかは詳細には分からないが、やはり無理だったということだろう。
2014年の今、結局「クリエイションの自由」を訴え続けていたコムデギャルソンのほうが力強く前を向いて進んでいるように見える。

これまで、日本において「アンチ・ウォー」という言葉は誰でも口に出来るお手軽なファッションのようなものだったと思う。しかし、今、その言葉がリアルに差し迫って来たこの時に「アンチ・ウォー」を言葉にすることは、これまで口にしたのとは比べ物にならない程に勇気のいることではないだろうか。

それに、川久保玲がテーマとした「アンチ・ウォー」は「クリエイションの自由」を守るための「アンチ・ウォー」なのだと思う。

テーマがどうあれ、ギャルソンの服は気分が上がるし、
秋冬物も欲しいから、仕事下さいって感じですww


そもそも「社会貢献」って何?~「善い行い」をすれば億万長者になれるか?

2014-07-05 04:03:19 | Weblog

『「善い行い」をすれば億万長者に?”社会貢献”を評価軸にした新たな成功の方程式とは?』という記事が私のFACEBOOKのタイムライン上に上がってきました。

http://logmi.jp/16378

私も以前は、善い行いが自分の仕事になればWINWINとか思って、
とある社会貢献を兼ねたビジネス(というほどのものではないが)を
やろうとしたけれど、3・11以降、やはりそれって違うかも…と思って、
やめてしまいました。

この記事のタイトルだけを見て言えば、「善い行い」自体が目的ではなくて、「成功」が目的で「善い行い」をやる人が出て来るのではないかと思えます。

結果的にはそれでも善いことをやるのは同じことじゃないか、と言われそうですが、
多分、その「善い行い」は善行を受ける側のことをあまり考えていない表面的なものに
なりそうです。それは、通常の商売において、儲けるために安かろう悪かろうになる人が結構いることを考えても想像に難くありません。

そもそも「社会貢献」って何でしょう。
本来なら、商売にしろ何にしろ、すべての仕事は社会貢献的な側面をもつはずで、
正直に、自分も欲しいと思えるものを、適正な製造方法で作り提供していれば、おのずとそれは人のためにもなるはず。けれど、個人による実態把握が不可能なまでに拡大し複雑になった経済環境においては、「仕事」でそんなことしていたら商売上がったり…という考えが支配的になり、自分の仕事がそのまま世の中の役に立っているという感覚を得られなくなってしまいました。それで、多くの人がボランティア活動に参加したり、NPOを立ち上げたり。
「仕事」とは別、といわんばかりに、課外活動をやっています。

もちろん、それもいいことだと思います。
けれど、普段の「仕事」の罪滅ぼしを、「社会貢献」で穴埋めするということになってしまっては意味が無いと思うのです。

「社会貢献」=「いわゆる人助け」だけではないはず。
まずは、今自分がやっている仕事を、本当に自分がやっていてよかったと思える仕事内容にして行くことの方が先のような気がします。

無農薬のおいしい野菜を作り、良いデザインと素材で、お針子さんに適正な賃金を払っている服を作り、個性あるくつろげる喫茶店を経営し、人を殺すための道具など作るのをやめる。そして、こうした商品がちゃんと売れれば、いわゆる「社会貢献」など必要なくなると思うのですが、やはり甘いですか…。

なぜ多くの人が、今の自分の仕事の現場で、「仕事は仕事しょうがない…」と考えているのでしょうか…?もちろん私もいろんな妥協をしているわけですが、まずは今の自分の仕事の場で闘うこと(別にけんか腰にということではなくね)が、善い行いの第一歩ではないかとも思います。

「いいね!」のクリックがいとも簡単なように、括弧付きの「善い行い」は、今やっている仕事の中で闘うことと比べたら、意外と簡単なんじゃないでしょうか。

無償の愛とは何ぞや


そもそもユーザー感情なんて読めるのか、自分のことも分からないのに…

2014-07-03 18:27:34 | Weblog

facebook上で「FacebookのサンドバーグCOO、ユーザー感情の操作実験を謝罪」という記事が話題になっていて、このタイトルだけに反応し、以下の文章を書いて、自分のfacebookのタイムラインに投稿した。それをこちらにも転載。

上記のニュース記事はこちら http://japan.cnet.com/news/business/35050302/

>>>>>>>以下

実験まではしないものの、ユーザー感情を読むというのはすべての商売の現場で行われること。しかしながら、あまり読みすぎて、自分はユーザー感情が読めてると過信するのは、人間の感情の機微というものに対しての冒涜じゃないだろうか。他人の気持ちはそんなに読めやしない。

ものを作って人に売る時の基本はやはり、自分がいいと思ったものを、伝わりやすい形に仕立てることだと思う。自分は感動しもしないのに、他人の心を読んだ気になって作ったものは、最終的に、その読みこぼしている「他人の感情の機微の部分」に復讐されるのではないだろうか。

人間が頭で理解出来ることなんて、宇宙の真理や生命の神秘のほんの断片。現在の科学はその断片だけをハメた隙間だらけのパズルを見ながら全体像を想像しているようなものだとつくづく思う。まるで、パネルクイズアタック25のチャンピオンクイズ。それも獲得枚数1枚みたいな世界。運良く顔の真ん中の部分を取ってたから読めましたみたいなまぐれの世界でしかない。何枚かパネルが開いていても、見えてない部分に落とし穴があると考える方が科学的にも正しいんじゃないだろうか。

人間は神にはなれないに100万点!

追記>>

でも、最近、感情を読まれたいと思っている人も多いんじゃないだろうかって気もするよな。なんかメディアとユーザーの共依存みたいな状態なのか…。ものづくりにおける考え方がマーケティングとなってから先、受ける側でさえ、喜んで、勝手に想像されたユーザー像を受け入れてる感じもする。

で、さらに追記。

上記の文章は自分が書いたことだから、そのとおりに思っているのだが、ひとつ書き落としていたことがある。

「自分がいいと思ったものを」と書いたが、この自分がいいと思っていることというのがくせ者で、しばしば「いいと思っているつもりになっている」ということがある。人間実は自分のことが一番わからないもので、心の奥の奥の声に耳をそばだてると、ちょっと違うことを言っていたりする。人はなかなか自分に正直になりきれない。

で、ちょっとそのへんを真剣に考えず、さらっと流してしまうと、「自分がいいと思ったもの」はなんだか通り一遍なつまらないものになっている。「いいもの作っても売れない」というものの何割かにはそういう通り一遍が混ざっていると思う。


喫茶店でゆで卵をもらう

2014-06-26 23:35:22 | Weblog

今日、隣町の喫茶店に行ったら、そこはお客さんのほとんどが近所の常連さんだった。しかし、疎外感を感じることはなかった。傍観していることに違和感を感じなくていい雰囲気は、店の人の素朴な対応から来てるのだろう。

店の人が常連さんに作りすぎた煮卵をあげようとして、あまり好きじゃないからいらないと言われていたから、お勘定の時に、あの煮卵売ってもらえません?と聞いてみた。すると、いつのまにか他の常連さんにあげちゃっていたようで、すいませんと、かわりにゆで卵を1つくれた。

夕方おじいちゃんとやってきた小学生は宿題をしているし、釣り帰りのおじさんは、ほかの常連さんにサバいるか?と聞いている。もちろんそこではいろんな愚痴や人生相談もおおっぴらに話されていた。

自分もその店の常連になって積極的に仲良くしようとまでは思わないが、そういう場所に座ってるのは嫌ではない。そこにいる人にはそれぞれの生活があるんだということがなんとなく垣間見えるから。今そういう場所はあまりない。

喫茶店がカフェになり、よそゆき顔で行く場所になって久しい。

よそゆき顔でたくさんの人が集まってるとき、人はアバターみたいに見える。今、ここに座っているアバターを端末から遠隔操作している「あなた」は一体どんな生活をしているの…?アバターの周りには透明な壁があって、「あなた」をかいま見せてくれない。もちろん、さらけ出せとはいわないし、あなた本人に出てこいともいわない。

ただ、そのアバターの向こうにあなたがちょっと見える気がするね…とも思いたいのである。

 


 


もう涙目になりそう…絶望の向こう岸~原発の凍土壁に思う

2014-06-17 14:46:42 | Weblog

これから書くことは、原発の事故処理に対して、誰しもが感じている当たり前なことだろうけれども、その「感じている」ということをもって、ことさらに原発事故のその後について口にする人が少なくなった気がするので、あえて書こうと思う。あまりにも当たり前過ぎて退屈だったら申し訳ありません。ちょっと長くなってしまったけど、よろしかったら読んで下さい。

しばらく前の新聞に福島第一原発への地下水流入を防ぐための凍土遮蔽壁の本格工事が始まるという記事が載っていて、昨日、その工事が余り上手くいってないことが報じられた。そもそも、この工事にはさまざまな懸念材料が提示されていたが、実際にそれが露呈して来ている。2010年に報道関係の仕事を辞めてからは、細かくこうした情報を追うことをしていない。これだけ大きな事故でありながら、これが日本の歴史上においても特記すべき大事と認識していながら、こうした事故後の状況については漠然としか把握していなかったのが正直な所だ。しかし、この凍土壁に関する記事を久しぶりに見出しだけでなくちゃんと読んでみたら、涙が出そうになった。あまりの八方ふさがりに呆然とした。

私は「事故前から原発はやめるべきだと思っている」という言葉を免罪符にしていたな、と思った。「脱原発」と「事故処理」は同じ土俵で考えてはいけないことも頭ではわかっている。しかし実際には「原発はやめるしかない」と思っていることを理由に、事故の現状をちゃんと把握することを怠り、無意識に目を塞いでいた。脱原発を考える人はすべて事故のその後の状況をちゃんと追っかけてるというわけではないのである。私みたいな人も多いと思う。

そして久々に、この凍土壁の記事を読んでみて、そして、あまりの八方ふさがりに呆然となり、その呆然こそが今の現実なのだということを思い知らされた。

以前から凍土遮蔽壁に対して提示されていた懸念は現実になりかけている。そうした懸念は当然である。しかし、他によい方法があるのか?批判は簡単だが、解決策を見つけることは大変だ。いや、まじめに検討すればいづれ見つかるかもしれない。しかし、それにどのくらいの時間がかかるのだろう。また、このまま放置していたとしたら、いつごろどんなことが起こる可能性があるのか…?議論している間に地下水が入り込んでしまうことはないのか…など、二次被害への想像が頭をもたげる。時間との闘いに背中がジリジリするような感覚に陥る。作業員には被爆の危険がつきまとい、また、そんな作業員の作業にも、人間でやるがゆえのヒューマンエラーは当然つきまとう。絶対大丈夫なんてことはない。そのとき、自分の住む東京は大丈夫なのか? いや日本は大丈夫なのか?

原発処理作業は現代の戦場であることは多くの人が指摘している。相手が他国の戦闘員やテロリストではなく、事故った原発というだけ。そんな戦場で被爆の恐怖と向き合いながら汗まみれで作業を行う人たちのことを考えると、また背中がジリジリする。追い立てられるように続く処理作業はやめるわけにはいかない。少しでも気を抜けば、日本は本当に大変なことになる可能性がある。私たち多くの国民の平安は、彼ら作業員の緊張した肩にかかっている。そんなプレッシャーに満ちた仕事で、絶対ミスをするなとは酷な話。しかし、本当にミスがあっては困るのだ。はやく作業員たちを楽にしてあげて欲しい。しかし、戦争なら降伏することもできるが、原発はそれさえも許してはくれないのだ。作業員の緊張は、世代を超えて、作業が続く限り永遠に続く。

こんなことに誰がしたのだ。こんなものを誰が作ったのだ。なぜ今の世の中はこんなジレンマのようなエネルギーに支えられているのだ…。今、自分が電灯の下でこの文章を書いていることさえじれったい。なのに、なぜ政府や財界は原発再稼働を意図し、さらに海外に輸出までしようとするのか。

そこまでの緊張と苦労を人々に強いている原発をさらに増やしてまで彼らが守ろうとしているのは何なのか? それは決して日本経済などではないと私は思う。彼らはそう主張するかもしれないが、そんな方法は前記したようなジレンマだらけのこじれた世の中を延命するだけの、それも焼け石に水でしかない。

彼らは再生可能エネルギーはなかなかモノにはならないという。開発にはコストがかかりすぎると言う。しかし、ITの世界で2000年以前にはgoogleがここまでの存在になるなど多くの人が予想せず、facebookもtwitterも存在していなかったのである。なのになぜ、古い原発というエネルギーにしがみつき、これだけ巨大な恐怖を増やさねばならないのか…。私にとってはこのことこそが、現時点での世界最大のミステリーだ。東京五輪のための国立競技場たった一つに当初3000億円もの税金を投入しようとしていたのである。そうした予算を日本のエネルギーシステム転換のために使えないものなのか…。

原発の事故処理に関しては、緊張の糸を切らさないように、もちろん議論の糸も切らさないように、地道にやっていくしかないのだろう。絶対に投げやりになってはいけない。今回の凍土壁問題で見えて来た問題の数々に対しても、投げやりにならず真面目に答えていかねばならない。時間との闘いなのであれば、そこは天秤にかけるしか無い。こちらのほうがベターと判断出来る範囲で議論を尽くすしか無い。それは背中がガチガチになるような大変なことだろうし、私は静かな部屋でこうしてパソコンに向かっているだけだから、言えることかもしれない。けれど、黙っていては、何も変わらない。

もうひとつ言うと、解決策に対してはお金にいとめはつけてはいけない。もちろん解決策の選択は慎重に行わねばならないが、お金惜しさに、挑戦出来ないということがあってもいけない。  

新聞報道では、凍土壁の失敗で300億円以上が無駄になる…といっていたが、原発処理という、地球環境にさえ影響しかねない、失敗を許されない作業には、1兆円かけたとてそれは無駄とはいわない。試行錯誤で税金が無駄になったところで、それが真摯な試行錯誤の上の無駄であれば、しょうがないはずだ。

いまだに、原発反対派の中にも、税金の無駄とか金勘定で政策の適否を語る人がいるが、もはやこの原発事故の問題はお金で語れるような問題ではないことを日本国民はもっときちんと認識すべきだ。もし、放射能の封じ込めに失敗したとしたら、日本は世界中の国から白い目で見られるはずだから。

荒唐無稽な人知を超えた状況に出会うと、人は思考停止に陥り、無意識に目を背ける。現在の日本の状況がまさにそれだ。多くの弱い人々は真正面から原発事故の現状を見ることができない。

より問題が根深くない方角を探して、最も大きな問題からは目を背けながら、目の前の大問題に蓋をしてきたのがこの3年間だ。

荒唐無稽な状況に舞い上がって現実を見失い、神頼みとか神風とかいって失敗したのが第二次世界大戦だということをもう忘れたのだろうか。自分の目の前にあるものをきちんと見つめ、見誤らないようにして、一つ一つ、自分の把握出来ることから処理して行くほか、私たち人間になすすべはない。無理なものは無理と認識することも必要なこと。

結局、現実に対処できるのは「真面目に、地道に、真剣に」ということしかないということを原発事故という現実によって教えられた。

妄想が悩みを深めるように、脳内でうごめく印象論や感情論、立場論に引きずられると、現実との矛盾がどんどん積み上がり、ふくれあがっていく。そうしないためにも、目の前で起こっている具体的な事象に具体的に対応していける真面目さが必要だ。未来への一筋の光を見るためには、目の前の現実を見るしかない。

 なのになのに、目の前には、「シュウダンテキジエイケン」の問題やら「TPP」やら、「東京オリンピック」など、よく分からない問題が山積みになっている。原発事故という大問題だけでも手いっぱいなのに…。

 本当に涙目になりそうだ。

このところ漠然と感じる絶望感は、人間はこれら全てをうまく解決するほど万能ではないことからくる虚脱…。

もう破滅への道を落ちて行きたいという誘惑が背後から忍び寄っているのが分かる。けれど、その誘惑に負けた時、その向こうに待っているのは、多分、薬物依存のあとの状況にも似た深い後悔だろうとも思う。破滅への誘惑というのはそういうものではないか…。しかし、その後悔の大きさは体験した人にしか分からない。だから今、多くの人がその絶望感(絶望だと意識していないだろうが)の虜になりそうになっている。

そして、そんな誘惑が現政権を支持する多くの人の無意識の領域を占めているのだと思う。


本当に伝えたいことを伝えるのは難しいなあ

2014-05-02 04:05:00 | Weblog

私は原稿用紙1枚の文章がさらっと書けるようになるまでに、随分時間がかかった。文章にも天賦の才があるのだと思う。小学生の時から作文の上手な人はいて、そういう人の文章は子供の頃からちゃんと構成ができている。私は好奇心はあれど、それがなかなか出来なかった。普段からの片付けられない性格を反映するように、頭の中の物事も分かりやすく整理できなかったのだ。しかし、興味のあることというのは世の中に溢れている。私は自分が面白いと思ったことを人に伝えたくてしょうがなかった。前の晩に見たテレビの話やら、読んだ漫画のストーリーのダイジェストを翌日の学校で一生懸命話していたっけ。我ながら下手な話だったと思う。

そして、大人になったある日、やっぱり私は人に「伝えること」をやりたいのだなと漠と思って、テレビ番組制作の仕事についた。当初は文章を書くことは少なかったが、しばらくして、報道関係のVTRを繋いだりナレーションを書いたりするようになった。ちゃんと伝わるとはどういうことかを本気で意識するようになったのはそのあたりからだ。それからは、片付けられない自分と、秩序無く散らばる情報との闘いだった気がする。すぐに気が散る。他のことが頭に浮かび、目の前のことが構築途中で崩れて行く。また気を取り直し、集中力を取り戻す。その繰り返し。納得いくような構成やナレーションはなかなか書けなかった。

報道系の番組のVTRの構成というのは、ほぼ情報の整理のようなものだ。そのニュースに関わる複数の情報をどう並べるか。しかし、それは付箋に書いた情報Aから情報Zまでを単純に並べ替えるのとは違う。たくさんの情報は、間に入る接続詞によって意味が変わって来る。つまり、ある情報とある情報の因果関係をどう考えるかで、そのVTRの内容は違って来る。そして、その因果関係をどう考えるかは、その事象にたいして自分はどのように考えているか、自分はそれをどう把握しているかということでもある。

ニュースの第一報を聞いた瞬間に「ある印象」を持つ。その印象をとっかかりに、そのニュースをどう採り上げるかを考えて行くのだが、考え始めると徐々に、自分がそのことについて本当はどう考えているのかが分からなくなって来る。分かっていると思っていたことでも、人に伝えるために言葉にしようとすると、それが中々出て来ない。それをがまんしてがまんして、考える作業を持続して、自分が本当にどう考えているのか、何を疑問に思っているのかを絞り出す。

頭の中で浮いたり沈んだりして、見え隠れしているものを、浮いた瞬間に掬い上げる感じはまるで泥水の中の金魚すくいのようだ。紙がやぶれれば、その金魚はすぐにその他大勢の金魚の中に混じって、どこへいったか分からなくなる。それほど意識を研ぎすまさないと、取りこぼしてしまう。そして、そんな金魚すくいの網から逃げて行きがちなものほど物事の肝だったり、自分が言いたかったことだったりするのである。

自分の考えていることを自分で自覚するのがなぜこんなに難しいのだろう。思うにそれは形の無いものを形にする作業だからだ。つまり、自分の考えを抽出するというのは「言語化」の作業である。古代の人々が事物のイメージから言葉を作ったのとはまた少し違うかもしれないが、頭の中の抽象的なイメージに言葉を当てはめて伝えられる形にする作業には違いない。自分の中に取り込んだ様々な言語情報や映像情報などから何が見えて来るか…というイメージ化の作業を経てから、それを再び言語化するというプロセス。伝わらない言葉というのは、そういうプロセスを経ていない気がする。

何がいいたいのかというと、伝わらない言葉というのは「コピペ」された言葉だということだ。誰かが言ってたこと、どこかに書いてあったことの断片をそのまま並べて行く。もちろん、世の中の事象のほとんどは過去からの引用であり、借用である。しかし引用にはなぜ引用するかの意図が伴い、パロディには敬意や解釈がある。そのままもってくるコピペにはそれが無い。元の文章の語尾を変えたり、てにをはを変えたりして、完全なコピペではなかったとしても、自らの意思が介在しない場合、それはコピペである。

「自分の言葉で話せ」とはよく言われることだが、それは頭に入れた複数の情報がおこす化学反応で生まれた抽象的なイメージを言語化せよということだ。そして、その抽象的なイメージこそが、自らの事象に対する考え方である。自分オリジナルの考えというのはまだ言語になっていないということだ。ぱっとすぐに言葉が浮かんで来るとしたら、それは既に一度考えて言語化したことか、他人の発した言葉を覚えていただけにすぎない。

水素と酸素が爆発を起こしたときの煙みたいに、情報が化合すると、頭の中になんだかもやもやとした煙みたいなものが生まれる。このもやもや、一見、分かっていないからもやもやすると思いがちだが、これは何かをわかろうとしている予兆である。この煙をたよりに、結果生まれた水にたどりつく。このもやもやこそが、自分の言いたいことのはずだ。そして、そのもやもやを的確な言葉に置き換えることによって初めて自分の考えが人に伝わる。なんらかの情報を得て、このもやもやが起こらないとしたら、自分は何も考えていないと疑った方が良いし、何かを書いたとしても、それはコピペである可能性が高い。

今、番組の構成の仕事に関わっているが、これは得意だからやっているのではない。これまで、自分の頭の中のもやもやをどう伝えればいいのか、ずっと悩み続けて来たことの結果なのだと思う。肩も凝った、目も悪くなった。ガンにもなった。それでもまだまだ整理能力に劣る私は、もやもやが生まれる前に、たびたび溢れる情報の波に溺れている。

その情報の荒波を泳ぎ切り、さらに、生まれでるもやもやをはらすのに有効なのは、やはり人と会話することだと思う。人に話しているうちに自分の中で物事が整理され、相手が質問してくれたり、興味を示してくれることで、風に消え入ろうとしていたもやもやが、再び目の前に立ち現れる。

物を書くことにおける編集者の必要性ってそういうところなんだろうな。

この文章を書く間もずっと思っていた。「私は一体何が言いたくてこの文章を書き始めたのだろう」。確かに何かを書こうとして書き始めたのだが、読み直すと、何を言ってるか分からない。そして書き直す。言わんとすることが微妙に変わって行く。そして、書き終えようとしている今、最も何が言いたいのかよく分からない。多分、この文章、あまり人に伝わるものになってないんだろうな…。もやもやをつかみきれなかった。

いや、自分が何を思ってるかが分からないまま、人に何かを伝えようとする人をよく見かけるので、それってそもそも伝える前提が崩れてるじゃんと思ってて、それを言いたかったのに、なんだかミイラ取りがミイラになってしまったかも。

「文章を書ける人になりたい」という思いが先走って、必然性のないことを書かせてしまうのかもしれないな。やはりこれが言いたい!という思いが無いと、伝わる文章というのは書けないのですな。そして、思いはあっても、スキルがないと、伝わる文章が書けないのも事実。もちろん天賦の才のある人とか、勢いで伝えてしまえる人は別ですが。

ああ、もうこんな時間。

伝えたいことを伝えるのは本当に難しいっす。

 


夏目漱石「こころ」が朝日新聞で再連載されてますね

2014-05-01 17:01:32 | Weblog

朝日新聞で夏目漱石「こころ」の再連載が始まっていて、それを受けて、姜尚中が舞台となった鎌倉を歩く企画を同時に紙上でやっていた。

姜尚中は漱石の生きた明治時代以降、つまり近代以降を「人が塵芥(ちりあくた)のように扱われ、人間が人間でない時代になりました」と語る。「文明開化」がもたらしたものだ。漱石はそういう近代の到来に反問し(煩悶し?)、「こころ」を書いた。

このまえ、NHKの「72時間」という番組でスカイツリーを下から見上げる人々を追っていた。そこで、今しがたスカイツリーから降りて来た一人の男性が、「上から見ると人間ってちっぽけだなあと思った」と語り、さらに、そう思ったら少し元気が出てきたと言っていた。

技術の発展により、人間はどんどん神の視点を手に入れようとしている。そして自らのちっぽけさを上から見下ろす。神の視点で見下ろす時には元気が出るが、地上に降りて、一匹の蟻となって働くとき、漱石のような思いに駆られないか・・・。

高層ビルの上から地上の景色を見下ろすことは、そうした空しさをしばし忘れる為に、一瞬だけ神の視点を手に入れることのように思えて来た。

もっと考えることはあるが、仕事中なので、ふと思ったことだけメモしておく。