橋本治とナンシー関のいない世界で

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とうとう橋本治までなくなってしまった。
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ニコニコ動画生激論「ベーシックインカム(キリッ」を見て考えたこと ~長いので気をつけて!!

2010-02-25 17:11:20 | メディア批評
ニコニコ動画で20日土曜深夜にやった東浩紀氏司会のニコ生激論
「ベーシックインカム (キリッ」。視聴者は最終的にのべ5万人弱。
ベーシックインカムという言葉が少しずつ知られ始めているとは思っていたが、
5万人近い人がこんな夜中に視聴するとは驚いた。
見ていた年代層はどういう分布なのかなあ・・・。

「ベーシックインカム」というテーマについては、
今後、議論されるべき重要なテーマであることは疑いもないが
自分自身、これまでテレビの仕事をやってきたというのもあるし
(もちろん偉そうなこという立場にはないし、
この3月いっぱいで辞める予定だが)、とりあえず今回は、
「ベーシックインカム」の是非はおいといて、
単純にこのニコ生激論が「番組」としてどうだったのかを
なんとなく考えてみた。

現在、ニコニコ動画にアップされるオリジナルコンテンツの中で、
報道系の公共性を帯びたものというと、大臣会見など、
編集や構成を必要としない(会見の場合編集あえてしないでしょ)ものが
ほとんどではないかと思う。
しかし、今回の「ニコ生激論」は、明らかに「朝まで生テレビ」を意識していて、
出演者も朝生に出演したことのある方が多数。
当然、途中でVTRが入ったり、生アンケートをとったり、
段取りもあれば、演出もあった。

この実験は、今後、ネット上での映像コンテンツ、特に報道系のそれが、
どういう形になっていくのかを考える上でも参考になったはずだ。
そこで、今回の番組が、実験的な試みということは分かりつつ、
あえて、見ながら感じた「違和感」など、批判的な意見を述べさして下さい。

当然のことかもしれないが、第一印象はよくも悪くも「素人くさい」。
いろんな仕切りにおいて、全体的にかなりグダグダな感じだった。
「そもそもテレビの素人がやってんだし、機材もないんだし、
 そんなことはどうでもいいんだよ。わかってないなあー」という
ニコ生視聴者の声が聞こえてきそうだ。
それに、私も「ニコ生」が地上波テレビ同様の段取りと演出を
きちっとやったところで、そりゃ違うんじゃないかと思う。
もともと予算的にも無理だし。

この50年間、テレビは「分かりやすく伝える」を追究し、
「見せ方」にこだわるあまり、その技に溺れ、
最も重要であるはずの「何を伝えるべきか」ということを
置き去りにしてしまった。
今回のニコ生激論のような番組は、テレビが置き去りにした
「何を伝えるべきか」を取り戻そうとする動きだろう。
だからこそ、あえて、「見せ方」なんかにこだわっちゃいけない。
私はそう思う。でも、でもだ、
なるべく多くの人に「ベーシックインカム」という聞き慣れない概念を伝え、
それについて議論する時、
「こういう不親切な感じってありなんだろうか?」とも思った。

まず、山森氏のベーシックインカムについてのVTRでの解説が
立て板に水で、入ってこなかった。
あまりにも教科書的な構成の解説で、生激論で語られる内容に有機的に
絡んでこない。今までテレビをやっていた経験からすると、
これは、スタッフの打ち合わせ不足のような気がする。

基本的な解説の他に、現在日本国内ではどういう問題点が指摘されてて、
どういった議論があるのかなど、論点となりつつあるポイントを
最初の方に一度整理してもらえると、その後の激論も分かりやすかった。
個人的には、財政的な部分でどういう議論があるんだろうとか思ってたので
そういう辺りの現時点での日本の論調をもっと整理して知りたかった
(ずっとつけてはいましたが、長くて深夜だったので、意識が飛んでて
頭に入ってなかっただけだったらすいません。もしくはつぶやきの方を
見てたとか・・・)

激論本体についていえば、悪く言うと、
「選民たちのサロン雑談」を感じる部分が結構あった。
難しい事を日々勉強する余裕もあるし、IQも高い人たちが、
突発的によくわからないことを言い出す。そして議論を支配する。
今回の視聴者には、それを一生懸命理解しようとする人も多かったとは思うが、
これには、拒否反応を示す人もいるのではないかと思った。

具体的にいうと、これは長々と展開された
ホリエモン&小飼弾氏のぶっとびトークのことを指しているのだが、
それに対し、ぶち切れるコメンテーターもいたほどだもの、
そうした状況も含めて、モニターで見せられている側は、
ちょっと心の距離を遠くしたのではないだろうかと、
老婆心ながら心配になった。

これまで、ネットの世界で自らの意見を述べる人のツールは
テキストが主流で、そこで活躍する人も活字メディアの人が多い。
活字メディアは、ある程度思考を巡らせた上で、
満を持して自分の意見を開陳できるある程度思慮深い世界だ。
それに対し、生放送の映像の世界は、時間の流れに支配され、
「しゃべりの上手さ」がモノを言う瞬発力の世界だ。
出演している人の中には、あまりそうした場で揉まれていない人もいて、
その得手不得手があからさまに画面に表出。
容赦ない弱肉強食の世界が繰り広げられてしまった。
これって、皮肉にも最もテレビ的な、それもテレビの悪い部分が
強調される展開になったってことだ。

もちろん、4時間近くにわたる議論では、
興味深い議論もいくつもあって、得る部分はあったし、
ここでは、あえて気になったことを挙げているので、
今回の番組を否定しているのではないことをお断りしておきます。
むしろ良かったと思ってます。
 
ところで、23日に行われた「アルファブロガーアワード2009」では
テレビとツイッターというテーマでトークが展開され、
USTやニコ生などのウェブの映像メディアのコンテンツは、
今のテレビコンテンツ的なるものを目指すべきではないし、
違う進化をするだろうというような意見が出されていた。
私もそういう気がする。

しかし、こうしたプレゼン(人にものごとを伝えること)を行う上での
「基本的な」スキルや考え方は、ネットであろうが、テレビであろうが、
予算があろうがなかろうが、そう違わないのではないかと思う。

今のテレビの報道のあり方に幻滅し、より公共性の高い話題を選び、
人々に訴えかけ、世の中での議論を喚起しようというのなら、
ウェブメディアにも、もっと分かりやすい解説と、
話の展開の工夫は必要になると思う。

ネット上では、時に、分からない人は分からなくてもいいんだよ的な
投げ出しが容認される(ような気がする)。
もちろん、それで良い場合もあると思う。
しかし、ネットが今後さらに普及し、放送と通信が融合し再編されていく中で、
利用者の裾野がさらに広がった時、
そうした意識はどのように変化していくのだろうか?

例えば、ベーシックインカムみたいな、マスメディアは採り上げないけど、
全国民が当事者となるような重要なテーマを採り上げようという場合。
まさに今回のニコ生のような場合。
それをムーブメントにしようという目論見があるなら、
より一般的な人にも伝える努力が必要なのではないかと思った。
また、東さんが主張されるように、将来的に、
SNSによる直接民主制をやってみない?って話になった時に、
全ての人々に基礎情報を届けるメディアとして
ネットの映像メディアが使われるようになった場合、
やはりそこには、もう少し伝えるためにスキルが必要なのではないかと思う。

テレビの世界にいて思うのは、
活字の世界の方がたくさんの情報を載せられる分、
また、映像コンテンツを作るという作業がいらない分、
考える事にかける時間も多く、より物事を深くとらえているなということだ。
テレビは、物事を深く考える以前に、やる作業が多過ぎるの。

だからこそ、テレビの世界以外の人から発せられる問題提起は重要だし、
現に、そういう活字メディアの人たちにコメンテーターという形で
頼っている部分も多い(そのコメンテーターの善し悪しは別にしてね)。

だから、今回のように、東さんのようなテレビの人ではない人が、
ものすごくテレビ的な田原総一朗の役割を試みる事は、
今後のメディアのあり方を考える上で、すごく試金石になると思った。

でも、それが、「テレビはダメだから・・・」というような
今のネット上の言論で主流になっている風潮にモロに乗っかって、
さらにその姿勢を尖鋭化させてしまったとしたら、
そこには、置き去りにされた人たちの憎悪が生まれるかもしれないと
危惧してしまう。

テレビの現場にいながら、どちらかというとネットや活字の情報に親しみ、
ネット上の有象無象の情報を、時には信じ、時には疑い、
常に話の種としてきた私は、
なかなか周囲の人間の共感を得る事ができなかった。
そして、職場で、なんだかひとりぼっちになった気がして、
この不況の時代リストラされるわけでもないのに、
今の職場を去ることにした。
それだけ、既得権を持つ層というのは、新し物好きを怪訝な目でみるし、
既にあるものに素朴な疑問を呈するものを受け入れない。
受け入れてもらうには、何らかの権威の冠が必要なのだ。
そして、そういう保守的な人々は、既得権を持つ層だけでなく、
何も持たない一般の人々の中にもまだまだ多く存在していると思う。
政治と金の問題以降の民主党の現在を見て、なんだか萎える私である。

そういう状況の今の日本で、
新しい考え方にはついていけねーよと諦め、
さらにはニヒリズムに走った人々が、ダークサイドに陥らないことを願う。
新しい考え方を伝える時には、
より熟考を重ねた伝え方を模索せねばならないと強く思う。

最後になってテレビの肩をもつようだが、
やはりテレビが50年かけて積み上げて来た「伝える」というノウハウは
バカにできないのだ。テレビの現場では、
上記のように萎えるような事もあるが、本当に多くの人が寝る時間も惜しんで、
どうしたらより「伝わるか」を一生懸命考えているし、
そのスキルは尊敬に値する。
そういう事実を差し置いて、「テレビはダメだ」と簡単に切り捨てる事はできない。
私なんて、考えるばかりで(ってそれほど考えてないけど)、
テレビという媒体に本気でのめり込めなかったから、
20年も続けてきたこの仕事を辞めることができるのかもしれない。
ある意味脱落者なのだ。

テレビが、もう少し、視聴率というものを柔軟に解釈していたら、
現在、違う状況があったかもしれない。
NHKの好調は、受信料が安定しているという制作費の問題だけでもないのだろう。
現に民放にもいい番組あるし。

テレビの側が、もうちょっとだけ、
「何を伝えるべきか」「何を伝えたいのか」ということに意識的になれば、
通信と放送メディアは仲良くできるのにと、
そんな大きなことなどどうする事もできない私は、
一人力なく、思う。

放送の中立性とかなんとかが、「伝える」の主語を消し、
テレビ報道は、判断を見ている側に任せるメディアになった。
もちろんプロパガンダメディアになってはいかんのだが・・・。
本当に難しい問題だ。

ニコ生を語りつつ、とめどなく語ってたらテレビの話になってしまいました。
すごい長くなってしまいすいません。

なんだかんだ言っても、これまでテレビをやってきたんで、
ネットのことはよく分かってません。
なんでもマニュアルを見ないでできる範囲しかやってません。
それで、偉そうなことは言えないかもしれませんが、
感じたままを書いてみました。
もはや論理的整合性もないんじゃないかと心配ですが、
最後まで読んでいただきありがとうございました。