橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

ちょっと弱音を吐いてみる。~東浩紀のニコ生「黒歴史」発言をきっかけに自分のことをふりかえる~

2011-05-08 21:06:15 | 東日本大震災

東浩紀の論説は、これまでそれほど熱心に追ってきたわけではないが、

去年の夏、ブログで朝生での彼の発言をとりあげたところ、

その記事にめちゃめちゃアクセスが集まり、

それ以来、このブログの検索ワードの首位は毎日「東浩紀」状態だ。

それで、なんとなく彼のツイッターもフォローし、言動をゆるーく追っている。


そんな東浩紀が、先日、といってももう1ヶ月近く前のニコ生で斎藤環と対談したのだが、

その映像を、タイムシフトで今朝視聴した。

 

ホストの斉藤氏としては「動物化するポストモダン」あたりをネタに

311以後、「キャラ的なるもの」はどうなっていくのかを語りたかったようだが、

東氏は自分の震災前の仕事は全部「黒歴史」だと爆弾発言!

震災後自分が分からなくなった、自分なんて誰も認めていない、

自分なんてダメとわめき続けていたのだ。

面白かったけどちょっとびっくり(本気かなあ~?)。

斉藤氏は、本職の臨床医に戻って、口数少なく彼の話を聞いていた。


斉藤氏も言っていたが、東氏がそんなに認められていないとは思えない。

しかし、震災前後で、いろんなことが変わってしまいどうしていいかわからないという気持ちはなんとなく分かる気がした。(東氏からしてみたら、私みたいなものにばかり共感され、認められたい人には認められないとさらに不満に思うかもしれないが)。


というのも、震災のあと、自分もどうしたらいいのかわからないのだ。

そして、それは共感者を失う事からくる経済的喪失への恐れではないかという気がしている。

世の中がこんな状態で、共感の得られない事を言ってしまったら、取り返しがつかなくなる。世間からはぶんちょにされて生きて行けなくなる。そういう恐怖が、私だけでなく、ツイッター上の人々の発言を限定し、減らしている気がする。

 

震災の前と後では、多分、共感を得られることの種類が変わってしまった。

しかし、どこまでが共感の範囲かがわからない。誤解を恐れず言えば、今は震災と原発の話をしておけば大丈夫なのだ。

そして、世の中が、震災と原発の話一色になってしまったことは、それと全く関わりない仕事をやっていた人にとっては、おまんま食い上げの状況を作りかねない。

 

東氏が震災後の自分に自信をなくしているのは(本当になくしているかは別として)、そういう共感がえられない恐怖、ひいては、そこからの収入が得られなくなる恐怖と繋がっている気がしてしょうがない。収入なんて卑近な問題かもしれないが、又、自分が今経済的に厳しいせいかもしれないが、意外とそういう危機感は多くの人が抱いているのではないかという気がする。いや、東氏はホントはそうじゃないかもしれないが、東氏の言動をきっかけに、自分も含めたそういう人々のことを想像した。

こういう感じは、大企業や行政等、大組織にいる人にはわからないかもしれない。私も組織で働いていたらそうだったろう。しかし、組織を出て独りで収入を確保しないと行けない立場になると、共感を持ってくれる人が何人いるかが命綱になる。


また、東氏は必要以上に自分が認められてないというが、それは、大学や学会、文壇などの既存の権威や組織、はたまた自分が信頼している人から認められていないという意味なのだろうか?

 斎藤氏も「三島賞をとりツイッター7万人のフォロワーというのはスゴいのになんで?」と訝っていたが、安定の得られる場所(既存の権威や組織)や信頼できるものからの承認ではないことが、この震災後において、彼を不安にさせているのではないだろうか。そんなチンケな人間じゃないぜと東氏に怒られそうだが、きまぐれなツイッターの空気はすぐに変わる。震災後すでにがらりと変わっていて、これまでと同様の承認が得られるかは未知数なのだ。

 

震災後の日本にあってより実感として感じるのは、象の余裕とねずみの焦りだ。


東氏くらい有名人になると、そんなに心配しなくてもいいと思うし、こんな話に東氏を引き合いに出すのは間違いかもしれないが、東氏の言動をきっかけにこんなことを考え始めたので、ここまで、ニコ生の話使わせてもらいました


ということで、まさに「ねずみの焦り」の側である自分のことである。

振り返るってみると、私も震災によって、それまでやっていたことをどう扱っていいか分からなくなってしまった口だ。

 

今年に入って、寄付付きのメイドインジャパン商品というものを開発して販売しようとしていた。イラクの子どもの描いた絵をメイドインジャパンの高品質製品にコラボさせ、価格の2割を、イラクへの医療支援NGOへの寄付にあてる。NGOの乏しい活動資金が、正当な経済活動によって生まれたらいいなと思って始めた事だが、震災後、すべての支援のこころざしが日本の被災地に向かい、イラクへの支援は目を向けてもらいづらくなった。

 まあ、それは当然の事だ。今は、国内の復興に国内の資金を集中させる事が急務である。

 

問題はそのあと。

じゃあ、国内の被災地支援向けに何か企画をと思った時に、無償でないと受け入れられない空気が出来上がっていた。私が震災前にめざした、誰も経済的にマイナスにならない形で、つまり経済活動で支援金を生むというスキームは、儲け主義と受け取られかねない雰囲気になってしまった。

チャリティを目的とした品質二の次の商品を売って募金を得るのではなく、チャリティでなくとも欲しいと思ってもらえる魅力ある商品を作り、たまたまそこに募金が含まれているというちゃんとした商売にしたかった。商品を通してNGOの活動についても知ってもらえればと考えていた。しかし、世の中の人みんなが、無償でボランティアをやりたいと言っている今、自分の生活費をこのチャリティ事業で稼いで、一部を募金しようと言うスキームは理解されづらくなってしまった。


こういう善意を経済活動にしようとした私が間違っていたのか?

欧米では一般的になっているスキームは日本人の心情にはそぐわなかったのか?


いや、すでにチャリティの権威として存在している赤十字は、

寄付だけを集めるとはいえ、職員の人件費は寄付金から手数料として抜いている。

それには誰も違和感を持たない。

しかし、ちゃんと商品を作ってその価値に見合う価格で販売し、さらにその一部を寄付しようという行為のほうが、なぜか儲け主義と思われてしまう。


おかしな話だが、最初から「寄付付き」と言わねば良いのである。

言わずに商品を売って、利益の一部を寄付したら、良いことだと言われる。

多くの大企業が実際にそうしているように。

最初から「寄付付き」と言ってしまうと、この機に乗じてと思われる。

結果、寄付をするのは同じなのにである。


では、あなたも寄付付きと言わねば良いだろうという人もいるだろう。

そう、言わなくていいのである。

しかし、資金の無い私のようなものが、大企業のふんだんに宣伝費、流通費をかけた商品と同じ土俵で競争するには、何か別にアピールするものがなければ戦いにならないのだ。私のような個人には、商品が売れなければ寄付するお金さえ捻出出来ない。宣伝費もかけられない。そこで、「寄付付き」をうたう事で、商品に興味を持ってもらおうと思ったのだ。そもそも、寄付する先の状況(イラクの小児がんの状況など)を知ってもらいたいという目的があるのだから、寄付付きをうたう事が、状況を知らせる入り口にもなる。もちろん、震災前の状況で考えた事だ。


もともとお金のある人はいくらでも支援ができるが、私のように収入のないものは支援しようにも支援出来ない。

多分、今、この震災後にも被災地の支援したくてもできない人というのはいくらでもいるだろう。身体一つでボランティアに行こうにも、養う子供がいて働かねばならないとか、家族がいるのにリストラされたとか、自分の生活で精一杯の人は、被災地の惨状をテレビで目の当たりにしながら、募金箱を見るたびに、何もできない自分にうちひしがれているかもしれない。

どうせ何かはやってお金を稼がねばならないのだから、それを仕事にすればと思ったのだが・・・。

状況が変われば上手くいかないものだ。


震災を経て、資本のあるもの、既得権のあるものの強さをまざまざと見せつけられた感じだ。持つものと持たざるモノの差をひしひしと実感させられた。(もちろん、これは差があるという事実を述べているわけで、批判しているわけではない。こういうときに資金のあるものからの支援はもっとも重要だし、素晴らしい事だと思う)。


仕事を辞めて資金も無く、アイディアだけでなんとか乗り切ろうと思ってやってきたが、この未曾有の危機に、なんとかなっているのは大企業ばかりだ。仮設住宅の発注も結局、国は大手に丸投げしている。


新しく始めた事、小さな集団でやっていることなど、

まだ何者か分からないものは、こうした危機的状況のとき敬遠されがちだ。

震災後の統一地方選挙でも現職の当選が多かったように、

人々は、その内容よりも、見知ったもののほうに動く。


ただ、希望がないわけではない。

自分の目で見た範囲では、どうかんがえても、

小さい集団がやっているもののほうが楽しそうだ。実際楽しんでやっている。

合理的でもある、美的にも良い。

将来性はこっちのほうがあるように見える。

 

それに、上記で述べたような事も、私の思い込みの部分が大きいかもしれない。

一部の人の言葉を拡大解釈してしまっているのかもしれない。


自分の事で言っても、

上記チャリティ以外に進めている火鉢クラブは

お金にならないながらも、やるたび共感を得ている。

震災後の暮らしを考える場になると思うし、

自分の中でも、いろいろな発想がつながってきている。

このコンセプトをどう収益の上がるものにしていくかだ。


それに、上記のチャリティ商品に関しても、

将来、国内が落ち着いてきたら、再び国際支援が必要になってくる。

イラク戦争の検証にしても、アフガンの問題にしてもなんら解決していないのだ。

徐々に宣伝を再開したいと思う。


東氏が新しく借りたコンテクスチュアズの事務所も、震災でひび割れたそうだが、

私のマンションもひび割れが広がり、先日、2階のコンクリが一部はげ落ちた。

こうした物理的な不安が、その他のいろんな心理的な不安に繋がってるのだろうな。


鬱々して、やるべきことをやってないだけかもしれないのだと思う。

その不安がまた不安を増幅している気もする。

動き出せば、また共感者を見つけ、そこに希望が出てくるかもしれない。

たいていいつもそうだ。私はがんばり屋さんではないので

いつもこうして言い訳ばかりしている。

 

東さん引き合いに出してすいませんでした!

基本的には関係ないです。ただのきっかけ。



イラクの子どもアートと今治タオルのコラボ商品はこちら

「shop出島DEJIMA」http://dejimajapan.com

 

「火鉢クラブ」のブログはこちら

http://hibachiclub.blogspot.com/







 


電気料金値上げはコラテラルダメージと言っていいんじゃないか

2011-05-08 16:17:04 | 東日本大震災

アゴラに掲載されていた東電の電気料金値上げについての前田拓生氏のブログを読んだ。

http://agora-web.jp/archives/1321517.html

 「株式会社だから利益を出していかねければいけないことから、

 電気料金を引き上げるしか無い」という解説が

テレビでされていたらしい。

 本当にこんな解説をしていたのだろうか。

だとしたらアホである。


普通に考えて、逆だろう。

 株主がその責任を負えばいいんじゃないのか。

 これまでそこから利益を得ていたんだから。


電力供給をせねば国民生活が・・・というならば、

資産を吐き出させて、一時的に国有化すべきだ。

 

海江田大臣が「東電には補償のために稼いでもらわないと」とか、

 「電力供給義務を果たせるようにしないといけない」とも言ったというが、

 それは詭弁というものだ。

単なる「値上げ」を「稼ぐ」というのは・・・


それに、そもそも日本の電力事業というのは、

「稼ぐ」と言っていいんだろうか。

生活にどうしても必要なもの、買わざるを得ない商品を売っている上に、

それを一私企業が独占する形になっているからだ。

営業せずとも、サービスせずとも、

頑張らなくても収入が約束されている。


実際の電力以外に電力会社が私たちに与えてくれるサービスがあるとしたら、

 それは、安全に発電を行い、安全に送電してくれるということしか無い。

 つまり、彼らが「稼ぐ」ためにやるべき事は、

より確かな安全を提供することだ。

まさに、現在、福島第一原発で作業されている作業員の方たちは、

その安全のために働いている。


もし、値上げされたとしても、

それがその方たちの追加手当というならば文句はない。

しかし、それは現場で作業しもしない社員の給与を、

2割なんてもんじゃなくもっと大幅にカットするなり、

送電網等の資産を吐き出したりした上での話だ。

いくら賠償のためとはいえ、

現場で働きもしない社員の給料を2割とか、

数千万円貰っている役員報酬5割カットというだけで、

電気料金さらに値上げというのは納得出来ない。

どうせなら、

現在現場で働く下請け業者と東電社員の給料を逆転してはどうだろう。

 

都合のいいときは一私企業といい、

都合が悪くなると電力はインフラですからという。

本当にありえんわ。

東電だけの問題ではない、これは国ぐるみの問題だ。

 

こうした電気料金の値上げとか、増税とか

震災や原発事故の影響によるリストラは

被災地だけでなく、全国に及ぶ。

こういうのをコラテラルダメージ(二次的被害)というのだ。

今後は、こうした二次被害についても

少しずつ考えて行かねばならないと思う。