このところ、文章が正直に書けていないことがとても気になりだした。読む人を意識して、良く書こうとして失敗している。
30年目にして初めて読んだ山口百恵の「蒼い時」からは、気持ちを正直に表現しようとしていることが伝わって来る。だから、途中でつっかえずに、どんどん読み進められる。
感じたことや考えたことをそのまま文章にすることは思いのほか難しい。ふと思いついた言葉の塊は、意外と早く頭から消えて行く。ふと思いつくことはやはり正直な気持ちだ。一方で、何か書こうと構えて、パソコンに向かって浮かぶことの多くは無意識に粉飾されている。だから文章にしてみると、読みづらい、嘘くさい、面白くない。
頭の中から何かを絞り出そうとして書いている今のやり方じゃあ、どんどん書くのが苦しくなるだけだ。多分、頭の使い方が違う。だって、私は書きながら気付けば、息を止めている。肩にも力が入っている。深くゆっくり呼吸しながら集中できる身体を作らねば、本当の言葉も綴れない気がする。
ガラスの仮面50巻は出てないよな…と思い本屋へ行ったが、やはり出ていなかった。かわりに「あまちゃんガイドvol2」「タモリ論」、雑誌「一個人・日本の新宗教」、そしてなんとなく、山口百恵の「蒼い時」を買う。「蒼い時」はAKB48が読書感想文を書くキャンペーンの一冊になってて、平積みされてたのが目に入ったから。
「タモリ論」と「蒼い時」。本と関係はないけど、百恵ちゃんが引退前に、タモリのオールナイトニッポンに出て、百の質問というのに答えていたのを思い出した。内容は覚えていないが、当時まだ「いいとも」も始めておらず、ゲテモノ芸人のイメージが強かったタモリの、それも深夜のラジオに出演して、100個もの質問に答えているということが意外で、このことはずっと覚えている。出版から30年以上。初めて読んで、これなら、タモリの深夜ラジオにも出演するかもなあ…と思った。(※後日追記:このタモリのオールナイトニッポンに関する記述は私の記憶違いだったかもしれません。以下のコメント欄にコメントをいただきました。詳しくはそちらをご覧下さい。でも、なぜそんな記憶になったんだろう。不思議です。)
それにしても、20歳そこそことは思えない文章である。「教条的」なんて言葉を普通に使っている。ゴーストライターが書いていたとしたら、なおのことこういう言葉は使わないだろう。正直すぎるほど、自分の気持ちを見つめて書かれた文章だ。普段は「百恵ちゃん」と呼んで何らおかしくない部分も併せ持った女性だったに違いない。
山口百恵が引退して数年後、日本にはバブルがやって来る。
なぜかその後の浮かれた日本では、子供のままの心を持ち続けることが良しとされ(もちろん良い部分はあるけど)、大人はダサいということになった。「大人」とは、常識に縛られてるとか、つまらないとか、お金を持っているとか、権力持ってるとか、そういうことになった。
そして、バブルも弾けて、いろんなことがあって、原発事故まで起こってしまった今頃、世の中にそのツケが回って来ている。
山口百恵が「蒼い時」と書いたあの時代。山口百恵がいた70年代といなくなった80年代は明らかに空気の層が違った。「蒼い時」から「なんとなく、クリスタル」に変わった頃だ。