テレビ業界というのはオトナな世界だから、同業者を表立って批判する人はあまり見かけない気がする。批判すること=無視、関わらない、だろう。一つ前の投稿で、百田批判とかしながら、結局、いつまでたっても自分はテレビ業界に向いてないなあ…と思ったりしている。
そんでもずるずると(細々とが正しいか)テレビの仕事をしているのは、他の事が長続きしないのと、自分がテレビや書物からもらった発見や感動やモチベーションを世の中の人にも感じてもらいたいという思いもある。しかし、それも利己的といえば利己的…。マツコが「やりたいを仕事にするとか言ってる女性誌、クソだよ」と言ってたらしいが、結局やりたい仕事って利己的なのだ。人のためも自分のため。自分が影響を受けた人や興味のある人に会いたいとかいうのももちろん利己的。
このブログの以前のタイトルは「ナンシー関のいない世界で」だった。ナンシーは正しく批判するために、テレビに出る人とは極力会わなかった。メディアから感じるものを正しく判断し、正しく伝えるためには、嫌いなものはもちろん、好きなものこそ身近にしてはだめなのだ。
先日、パルコミュージアムで行われたナンシー関の消しゴム版画展に行った。抜粋され、展示された傑作コラムを読みながら、その慧眼が失われた穴はテレビにとって、いや日本にとって、あまりにも大き過ぎるとあらためて愕然とした。
私にナンシー関のような文章は書けない。その文章を凄いと思う力しか無いが、やはりここが私のテレビとの距離感の基準なのだと思う。そして、そんな私がテレビ業界の中で働いていていいのか…という疑問は今も自分の中でくすぶっている。
2015年の手帳の中表紙にナンシー関の消しゴム版画を押してみた。
テレビとは何なのだろう。今、”EXテレビ”があるとしたら、それはどういうものなのだろう。