二宮和也主演のドラマ「坊ちゃん」を見た。
ドラマが原作と違ってるのは別にいいと思うのだけど、今回のドラマ「坊ちゃん」の結末がどうなん???と思うのは、今という時代に「坊ちゃん」をやるならば、こうじゃないだろうと思うからだ。漱石の時代から100年を経て、その間に終戦を体験しても、日本人の事なかれ主義や長いものには巻かれろや、ものごとを忖度してすぐ自主規制する性質は変わらず、いや、どんどんそれは大きくなって、世の中は閉塞しているのだから、原作に忠実に描いた方が、今やる意味があるだろうと思うのだ。
もうひとつ思ったのは、この小説は、言葉ならば伝わるが、映像化すると伝わらないことが多すぎるということ。例えば、「フランネルの赤シャツを着ている」という言葉。読めば西洋かぶれそのものだと分かるが、映像にすると、ただ赤いシャツを着ているだけで、フランネルを夏にも着ているニュアンスが伝わりづらい。現代の私たちにとっては珍しくも何でも無い素材や物が、当時としてはそれほど珍しかったということを分からせるための演出が必要だ。
漱石が描こうとしたものが日本の無理矢理な近代化への憂いであり、ただただお上の勧めるものに従順なだけで批判精神の無い日本人への憂いであるのだとしたら、このへんはもっと極端に描いてもよかったのではないかと思う。
このところ、私は、夏目漱石の「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」は田中康夫の「なんとなく、クリスタル」と似ているんじゃないかと思っている(逆か)。多分、橋本治の書いてたことをきっかけにそう思い始めたんじゃなかったかと思うが、記憶は定かでない。
明治維新で西洋かぶれになった日本人を揶揄しながら、日本の形ばかりの近代化を憂えた漱石と、バブル前夜、西洋のブランドものにかぶれ、すべての形あるものを記号化してしまったポストモダンの日本人をカタログ的な注釈付きで描いた田中康夫。「吾輩は猫である」にも出版社がつけた注釈がたくさんついてるが、田中康夫はこれを知ってて、真似したんじゃないのか?(このへんは実際にはどうなんでしょう?私は聞いたこと無いのですが、そう言われてたりするんでしょうか?)
夏目漱石研究の第一人者である江藤淳が、当時、評価の別れた「なんとなく、クリスタル」を絶賛したというのも、今思えばうなづける。漱石が憂えた近代日本の未来は、田中康夫が描いた時代を経て、今こんなことになっちゃっている。
元日の朝日新聞に掲載された岩波書店の一面広告「漱石は100年後の未来に何を見ていたか」。漱石のいくつかの作品から今まさに教訓としたいような言葉が抜粋されていた。
「坊ちゃん」からは以下の文章。
『考えて見ると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励しているように思う。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊ちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。』
やっぱり、今「坊ちゃん」をドラマ化するのなら、原作に忠実にやってほしかった。
「坊ちゃん」(青空文庫)