がんおひとりさまの連載、第4回目。タイトルは「さいごまで自分らしく。」
最後までって・・・。
最後がいつになるのかは分からない。けれど、「いつも自分らしく」ではなく「さいごまで」と書くのは、平均寿命まであと30年、さいごまで自分らしくという意味ではないだろう。
記事には、今は子宮体がんの抗がん剤治療も終わり、乳がん再発防止のための薬を飲み続けているとある。抗がん剤治療も終っているということは、多分、子宮頸部まで広がっていたがんも取り除け、その後の再発もないということなのだろう。抗がん剤をやってないので、もちろん今は副作用も無く、普通に仕事出来ているようだ。治療が終ってから3年。再発もしていないようなので、ちょっとホッとした。
なのに、3年もたつ今も「さいごまで自分らしく」という言葉が出る…。一度、辛い治療を体験し、死の淵を垣間見たからだろうか。再発の恐怖もいまだぬぐえないにちがいない。けれど、それもこれも、やはり世の中に「がんは死の病」という絶対的なイメージが根深く浸透しているからだと思う。もちろん、彼女のように、乳がんの後、子宮体がんも発症していては、死を意識するなというのは難しいかもしれない。けれど、今の私は、それさえもやはり世間ががんを怖がりすぎているからだと思っている。
私は現在、抗がん剤や放射線などのいわゆる西洋医学の治療を一切やっていない(放置しているわけではないです。食事療法や低温サウナやミネラル補給や散歩、レメディなどなどはやってます)が、今のところ、再発した乳がんは一時期の勢いをなくしているようだ。腋の下にあった腫れも一時期より小さくなっている。
再発が分かってから1年半。今後どうなるかはわからない。このままずっとなんともないかもしれないし、再び、悪化するかもしれない。私と同じくらいの症状で抗がん剤をやってる人より早く死んじゃうことだって考えられなくはない。けれど、今の私はそうはならないんじゃないかと思えるようになってきているし、もしそうなったとしても、それは自分の選択だからという覚悟が以前よりはできてきている気がする(もちろん本当にそうなったらどうなるかわかりませんが…)。そんなことより、今は、がんが再発しながらも、なんら辛い治療をせず、仕事も普通に続けられ、ストレスなく過ごせていることがありがたい。もし苦しい治療していたら今頃私はどうなっていただろうという思いしかない。治療に頼らず、自分の身体の声を聞くことで、人間の身体と病気というものの関係にも、思いが至るようになってきた気がする(そこらへんについてはまたあらためて)。
そんな私にとっては、この記事の最後に書かれていたこの言葉がひっかかった。
『二つのがんを経験し、お金や生活に困ったことはあった。でも、病気になったのは自分のせいでも誰のせいでもない。「これは自分が歩んできた道なんだ」と受け止めている。』
「病気になったのは自分のせいでも誰のせいでもない。」本当にそうだろうか…。
私は自分が乳がんになったのは、自分のそれまでの生き方すべての結果だと思っている。世の中には先天的な病もあるが、多くはその時の身体の状況を大きく反映する。風邪に感染するのだって、不摂生で免疫力が下がった時が多いように、無理をしたり、食事をおろそかにしたり、悩みを抱えたり、色んなことの結果が「がん」という塊でもあるんだろう。もちろん、自分のせいだけでもない、誰かのせいでもあるだろう。汚れた大気、添加物いっぱいの食べ物、電磁波などなど、がんとの直接の関連は証明されていなくても、身体に悪影響を与える物は世の中に溢れすぎるくらい溢れているのだ。さらに、必要以上の治療や投薬が患者をより一層の不幸に陥れていることだってあるのではないだろうか。
病気を作っているのは自分であり、社会であると考える時、なぜその病気が生まれたのかの原因に思いが至り、対症療法ではない、根本的な治癒への道が開けるのではないか。それは個人の病が癒えるというだけでなく、世の中から病が減って行く道でもあると思う。
もちろん、病気になった患者が自らを責めることは無い。原因と思われるものをあらため、これからはなるべく楽しく暮らす工夫をすればいいだけ。原因を見て見ぬ振りだけはしないほうがいいと思うだけだ。最初は気持ち的にキツいかも知れないが、結果的には心から病気と向き合い、吹っ切れる気がする。
明日は最終回。