橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

祝島へ行った その3 祝島上陸直前、柳井の町並と上関の船着き場にて、考える。

2010-06-12 01:21:27 | 祝島へ行った
「祝島へ行った」と題しながら、祝島へ行った その1
祝島へ行った その2では祝島へ上陸できず、その上、今回の「その3」まで相当日数が空いてしまった。そんな中、祝島をとりあげた映画「ミツバチの羽音と地球の回転」を観た知人から、ブログの続きはまだかとのメールももらい、焦って「その3」にかかったが、なんと、今回も祝島に向かう船に乗った所で終わる始末。って、終わらなくてもいいんだけど、分けちゃいました。すぐに続き書きます(汗)。というわけで、「祝島に行った その3」です。

早朝5時、朝焼けの中、松山三津浜港を出航したフェリーは、一路、山口県柳井港に向かった。愛媛県出身ながら瀬戸内海を船で渡るのは初めての体験だ。
小さい島がいくつも連なっているのは知っていたが、それがこんなにきれいだとは知らなんだ。

松山から柳井へ瀬戸内海を行く


フェリーの中も、円陣になったグループ用のソファ席があるなど、快適快適。
向かいのソファ席にもテーブルがちゃんと付いている。
船旅というのは、時間はかかるが、また時に船酔いという悪夢に襲われることもあるが、急いでさえいなければかなりいい感じだ。それに、松山―柳井のような対岸に位置する場所は、船で行けば意外に近いのだ。

ビデオでは島々の浮かぶ様子がよくわからなかったのでこの写真も載せときます


これは柳井港の近くにいた船。


朝の海風に吹かれながら、7時半に柳井港着。9時半まで祝島行きの船は出ない。そこで、それより40分ほど早く出発する8時51分発のバスに乗って、上関まで行き、そこから船に乗ることにした。バスの旅もいいもんです。


それまでの待ち時間は、柳井の街を散策。


柳井は元禄の頃から瀬戸内海屈指の商都として栄えた所で、今でも白壁と格子窓の古い町並みが保存され、観光資源となっている。まだ8時前で、ほとんどの商店が閉まっていたが、唯一醤油蔵だけが店を開けていた。

その醤油蔵の入り口に飾ってあった金魚。これ金魚提灯というこちらの地方の伝統的な工芸らしい。ほんとは欲しかったのだが、大きいのは1個1600円。失業中貧乏旅行だという意識もあって買わずに出た。でも、やっぱり買っときゃ良かったかな・・・。

ところで、この金魚提灯、かつて全国手広く商売をしていた柳井の商人が、なんと遠く青森のねぶたをヒントに考案したものだそうだが、この話からも、かつては、柳井がいかに瀬戸内海屈指の港町として繁栄していたかということがわかる。

船が運送業の中心にあったころは、港に適した街が栄えた。
私の故郷である愛媛の八幡浜というところもいまだに大分県との間にフェリーが走る港町だ。みかんと漁業の町だが、かつては紡績も盛んで四国のマンチェスターと称され、県内で最も早くに銀行が開業した土地だったらしい。
それが、今や、高速道路に素通りされたとかで、過疎が進み、商店街はシャッター商店街と化している。

かつて、陸地は山がちなものの、周囲を全て海に囲まれている日本にあっては、船は簡単に近隣地域と行き来できる便利な交通手段だった。
そして、その時代、祝島のような「島」は、海の中継地点として重要な交通の要所となっていた。
山口県には「上関」のほか、ご存知の「下関」、そして「中関」という地名も残っているが、これらは瀬戸内海の積み荷の検査をする番所があったらしい。
上関町にある「祝島」は、奈良時代から九州の国東半島と近畿を結ぶ海上交通の要衝で、まさに九州、本州、四国をつなぐ場所だった。
それが、高度成長期以来、森林を伐採し陸地にコンクリートの道を造りはじめたことで、船の利用が減り、過疎地域に変わっていった。
祝島だけではない、私の故郷も、そんな過疎地になった海上交通の要衝の一つだ。そして、そこにも原子力発電所が建設されている。つい先日プルサーマルを受け入れた伊方原子力発電所だ。

海水によって冷却できること、住民の住む地域が片側しかないことなどから、海岸の町に原発は立地される。ましてや過疎だと行政側には都合がいいのだろう。
コンクリートの道路建設で人を奪われ過疎になった所に、今度は原発を押しつける。もともと人が少なくなったのも、国の政策のせいなのにね。

そんなことを考えながら柳井の町を歩き、8時51分のバスに合わせて、バス停に戻ってきた。


バスの一番前の特等席に座って、上関に向け出発。


自家用車が普及したとはいえ、バスはまだまだ、庶民の足だ。自分で運転しなくていい分、おしゃべりに興じる人、本を読む人、窓から景色を眺める人、町の一角がそのまま切り取られて動いて行くようで、その町の空気を知るいい観光スポットだ。
ただ、時として貸し切りとなってしまうこともあるが・・。

50分ほどのバスの旅で上関の船着き場に着いた。
バス停のすぐ側に、船の待合室があって、切符も売っていた。


次の船に乗る人が既に何人か待っている。
この辺りまで来ると、方言がきつくなって、早口の言葉がわかりづらくなり、つい聞き返してしまう。
船を待つ間、近辺を散策した。よくある小さい漁港の町だ。民家の間に、小さい役場や小さい商店や小さい町工場があった。
そんななかに比較的新しいこんな建物があった。歯医者さんだ。よく見ると、
こんなプレートが張ってあった。

原発受け入れを前提に交付金が出て作られた施設のようだ。
歯医者なんて、交付金なくても当然近隣にあるべきものだろうに。行政は、原発と引き換えにではなく、こうした施設は整備すべきだ。

近くには、上関の特産物を集めた小さな店があったが、そこに置いてあった上関町の広報誌は、原発の必要性を訴えていた。中部電力が発行しているパンフレットもあった。
地元でとれた海藻の袋といっしょに置かれている原発推進のパンフレットには複雑な感じがしたが、地方の景気は冷えまくり、この上関町も厳しい状況にある。それゆえの原発受け入れというのは分かりすぎるくらい分かる。
しかし、補助金と引き換えのこうした原発の受け入れについて考える時いつも思う。
町の人は、補助金をもらう事で、どういう生活が訪れる事を期待しているのだろう(お金と引き換えなんて言ったら、地元の人に失礼だろう。どうしても原発を作りたい国と電力会社のごり押しに負けて、しょうがなく補助金をもらう事で首を縦に振っているのだろうから)。
過疎地で不景気なのはどこでも同じだろうに、なぜ、祝島の人は補助金をかたくなに受け取らず、島の生活を守ろうとしているのだろうか。

やっと、船が到着した。
桟橋には、お医者さん。定期的に島に行ってるようだ。
(その後、祝島に着いて、散策していたとき、彼らが歯科診療所で治療しているのが、窓越しに見えた。)


というわけで、やっと、祝島行きの船に乗り込んだのだった。

次回はやっと祝島に上陸します。
続き「その4 とうとう祝島上陸」は明日にはアップするようにします。

Actio 2010年2月号 No.1299

一般社団法人アクティオ

このアイテムの詳細を見る

中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録
那須 圭子,福島 菊次郎
創史社

このアイテムの詳細を見る

近世日本海海運史の研究―北前船と抜荷
深井 甚三
東京堂出版

このアイテムの詳細を見る

日本の港の歴史―その現実と課題 (交通ブックス)
小林 照夫
交通研究協会

このアイテムの詳細を見る


最新の画像もっと見る

コメントを投稿