民主党代表選が終わった。
小沢一郎は負けた。
党員サポーターからの獲得票の差が予想以上に大きく一瞬愕然としたが、
しかし、これは各選挙区ごとに、1票でも多かった候補に1ポイント入るという総取り制になっているからで、実際には菅直人6に対し小沢一郎4くらいの割合で票を獲得している。
多分、こんなものなのだろう。
とはいえ、あの演説はちょっと身震いがした。
あんな力が入って、中身が見える演説って近年あまり聞いた事が無い。
でも、あの演説で心変わりする程、議員たちもナイーブじゃなかった。
それよりも、党員サポーターこそ、あの演説聞いてから投票すべきだった。
それほど、今回、小沢一郎の気迫は凄かったし、政策を語ると言う点で、近年の政治家の中で最も有権者に伝わる言葉を持っていたと思う。
いま一度、活字で読んでみても良いかもと思い、書きおこしを探したら、産経MSNがやってくれてました。
産経MSN小沢一郎代表選意見表明全文
しかし、この2週間、小沢一郎がひとり気をはく一方で、
会見の仕切りに登場したり、小沢派としてテレビに登場する取り巻きを見ていると、かなりしんどかった。
小沢一郎という人は、彼にぶら下がろうとする人ばかりを周囲に集めてしまうのではないかとどんよりした。記者懇談会に小沢自身が遅れてやってきた時の取り巻き議員の場の繋ぎ方などあまりに心もとなくて、これイメージダウンだろと心配になったほどだ。
彼らは小沢一郎が作ろうとしてる未来の日本の姿を本当に共有しているのだろうか?
高野孟氏が言っていた、小沢の人間不信とかニヒリズムとかってこういうところからきてんだろうか?
自分と同じレベルで議論できる人間がいない。だから、全て自分で考え仕切る。取り巻きは雑務をやってくれれば良い。数だけ集まってくれば良いってことか?それで数の論理になるとしたら悲しいなあ・・。
小沢のニコニコ顔からはそうは思えないけどね。
取材してないから印象でしかない。ほんとのところはわからない。
小沢一郎の言葉に嘘はないように見える
小泉元総理の意味無しプロパガンダとは違う真摯さがある気がするのだが・・・
今のところ、小沢一郎の古い体質といわれるものが、彼の政策に対する私の共感を覆すほど大きなものなのかどうかの判断がつかないままだ。
まあ、今日、政府が円高に対し為替介入した事からも、
小沢一郎が代表選ではっきりモノを言ったことの意味はあったみたいだから、今後の民主党にとって、この代表選はよかったんじゃないだろうか。
この為替介入がどのくらい効果があるかは未知数ですが・・。
一方で、メディアは捩じれ国会だの、今後の政界再編だの
またまた捕らぬ狸の皮算用で、早くも先のそろばんを弾いている。
今回の代表選でも、マスコミの影響力がまだまだ大きいことはよーく分かったから、世論誘導にならないように気をつけてくださいね。とかなんとか言いたくなるけど、
問題はそれだけじゃないんだよね。
メディアだけでなく、受けても含めて、日本人が全体的に自分の力で物事を考えなくなっていることが問題なのだと今回つくづく思った。
今回の代表選の各候補支持の理由を明確に論理的に語れる人がどれだけいるだろうか?
首相が3ヶ月で交代するのはなぜダメなのか?
小沢一郎の「政治と金」の問題とは具体的にどういったものなのか?
小沢一郎に政策がないというけど、「日本改造計画」読んだのか?
人々は、日々溢れてくる情報洪水の中で、自ら調べる事の必要性を感じなくなっている。そして、麻痺して情報の質を問わなくなった。だからだろうか、メディアの中に、自分で検証するための「材料」を求めるのではなく、用意された「答え」を求めるようになった。
言いかえれば、考えるということに「怠惰」になったような気がする。
そのくせ、人間には、頭がいいと思われたい、もっともらしいことを言う人だと思われたいという欲求がある。
例えばテレビの街頭インタビューでマイクを向けられたとしよう。
「実は、いろいろ迷う部分もあるのだが、ダラダラしゃべっても、よくわからない事を言ってる人と思われるに違いない、それってバカっぽいよな。」
そんな風に思った人は、ある人は回答を拒否し、ある人は、とっさに、どこかで誰かが言っていたもっともらしい言葉を探す。
良いとこ取りのコピー&ペースト。テレビに出てたあの有名人の分かりやすい一言を探す。とりあえずは、この大変な時に代表選なんてやりやがってと、ダメな民主党を批判してみたりする。
それはテレビカメラの前だけじゃなくて、友人の前や、地域の集まりや、近所の井戸端会議でも同じだ。自分が一生懸命考えたのではない、一見、見栄えのいいコピペ発言が横行してはいないか?
そして、自信が無い人や、考え中の人が黙っているうちに、マスメディア的論調はどんどんコピペされて拡大する。
「見栄」と「怠惰」
これが、現在の日本を覆って、ダメにしている根本的な問題ではなかろうかとつくづく思う。
でも、一方で人間は自らを怠惰だとか見栄っ張りとか思いたくないから、無意識に、そんな自分の態度に対する言い訳を見つけようとする。
そんな言い訳の受け皿となるのが「世論」なのかもしれない。
みんなが言ってるから。多くの人が言ってるから、は最強の保証だ。
「世論」にすり寄る事で安心し、深く考える事を放棄するのだとしたら、
たった数百や1000程度の世論調査をあたかも日本国民の民意のように振り回すのは、ある意味、社会への暴力ではないのだろうか。
ちょっと話は飛ぶが、以前テレビマンユニオンの村木良彦氏の追悼番組の中で「あなたにとって幸せとは何ですか?」という、街頭インタビューのみの番組が紹介された。そこでマイクを向けられた人の言葉は、たどたどしくはあるもののそれぞれがそれぞれの色を持っていた。それは、あらかじめ「答え」が用意された質問ではないからだろう。
大抵、昨今の政治がらみの街頭インタビューというのは、すでにどこかで誰かが答えたことのある質問ばかりだ。
漠然と欲しい答えを想定しているメディアと、 適当に頭の良さそうなコメントを言いたがる国民と、その共犯関係が顔のない「世論」を作って行く。
今回の代表選騒動からもう一点感じることがある。
物事を自分の身に引き寄せないで、いわゆる「世論」にコレだけ多くの人がすり寄る事ができるというのは、不況だとか、生活が大変だとか言ってても、日本はまだまだ余裕があるんじゃないかということだ。
自分の明日の食い扶持よりも、小沢一郎の「政治とカネ」の問題を最重要争点として受け入れられるほど、日本人にはまだ理想的な政治を追い求める余裕があるのではないか。
大いなる皮肉を込めてそう思うのだ。
そもそも、今回菅さんが選ばれた主な理由の一つが、首相が3ヶ月で辞めるのは世界から相手にされなくなるからとか言ってるが、それこそ暮らしに余裕のある人の危機感の無い優等生的な意見だ。次の首相が「日本は本気だ」と真顔で言えば、世界だって対応は変わってくるはずだ。それは就任期間の問題ではない。
日本の「世論」というやつは、時間もお金も余裕があって危機感が無くて好きな事言っていられる絶対安全地帯な立場の人の言説に引きづられすぎる。
誤解を恐れずに言えば、「最小不幸社会」と言うのなら、政治は暮らしに余裕の無い人の声だけ聞いていればいいのである。
なのに、マスメディアを通して流れてくるのは、まだまだ余裕のある人々の「愚痴」ばかりである。本当に大変な人々は、マイクが突き出されるような場所にはいない。「叫び」はブラウン管からは流れてこない。
現代日本の「世論」とは「愚痴」である。
そして「愚痴」とは、利己的な考えから生まれるものである。
政治を考えるとは自分の置かれた立場から「公共」を考える事だ。
そしてそこから生まれた意見の集積が世論であるべきだ。
瞬発力だけで飛び出す「愚痴」ではなく、
ゆっくり自分の頭で考えてた意見で世論を形成したいもんだ。
最後になってしまいましたが一言
。もちろん深くものを考えている方はたくさんいると思います。街頭インタビューでも真摯な意見を耳にします。また、このブログをここまで読んでくださった方が、自分でものを考えない人であるはずがない。
今回のエントリーはそこがジレンマなのです。
さらには、私こそ偉そうな事書いて、実は論理が雑駁という、その事実こそ自己矛盾ではないかと頭を抱えるのでした。
小沢一郎は負けた。
党員サポーターからの獲得票の差が予想以上に大きく一瞬愕然としたが、
しかし、これは各選挙区ごとに、1票でも多かった候補に1ポイント入るという総取り制になっているからで、実際には菅直人6に対し小沢一郎4くらいの割合で票を獲得している。
多分、こんなものなのだろう。
とはいえ、あの演説はちょっと身震いがした。
あんな力が入って、中身が見える演説って近年あまり聞いた事が無い。
でも、あの演説で心変わりする程、議員たちもナイーブじゃなかった。
それよりも、党員サポーターこそ、あの演説聞いてから投票すべきだった。
それほど、今回、小沢一郎の気迫は凄かったし、政策を語ると言う点で、近年の政治家の中で最も有権者に伝わる言葉を持っていたと思う。
いま一度、活字で読んでみても良いかもと思い、書きおこしを探したら、産経MSNがやってくれてました。
産経MSN小沢一郎代表選意見表明全文
しかし、この2週間、小沢一郎がひとり気をはく一方で、
会見の仕切りに登場したり、小沢派としてテレビに登場する取り巻きを見ていると、かなりしんどかった。
小沢一郎という人は、彼にぶら下がろうとする人ばかりを周囲に集めてしまうのではないかとどんよりした。記者懇談会に小沢自身が遅れてやってきた時の取り巻き議員の場の繋ぎ方などあまりに心もとなくて、これイメージダウンだろと心配になったほどだ。
彼らは小沢一郎が作ろうとしてる未来の日本の姿を本当に共有しているのだろうか?
高野孟氏が言っていた、小沢の人間不信とかニヒリズムとかってこういうところからきてんだろうか?
自分と同じレベルで議論できる人間がいない。だから、全て自分で考え仕切る。取り巻きは雑務をやってくれれば良い。数だけ集まってくれば良いってことか?それで数の論理になるとしたら悲しいなあ・・。
小沢のニコニコ顔からはそうは思えないけどね。
取材してないから印象でしかない。ほんとのところはわからない。
小沢一郎の言葉に嘘はないように見える
小泉元総理の意味無しプロパガンダとは違う真摯さがある気がするのだが・・・
今のところ、小沢一郎の古い体質といわれるものが、彼の政策に対する私の共感を覆すほど大きなものなのかどうかの判断がつかないままだ。
まあ、今日、政府が円高に対し為替介入した事からも、
小沢一郎が代表選ではっきりモノを言ったことの意味はあったみたいだから、今後の民主党にとって、この代表選はよかったんじゃないだろうか。
この為替介入がどのくらい効果があるかは未知数ですが・・。
一方で、メディアは捩じれ国会だの、今後の政界再編だの
またまた捕らぬ狸の皮算用で、早くも先のそろばんを弾いている。
今回の代表選でも、マスコミの影響力がまだまだ大きいことはよーく分かったから、世論誘導にならないように気をつけてくださいね。とかなんとか言いたくなるけど、
問題はそれだけじゃないんだよね。
メディアだけでなく、受けても含めて、日本人が全体的に自分の力で物事を考えなくなっていることが問題なのだと今回つくづく思った。
今回の代表選の各候補支持の理由を明確に論理的に語れる人がどれだけいるだろうか?
首相が3ヶ月で交代するのはなぜダメなのか?
小沢一郎の「政治と金」の問題とは具体的にどういったものなのか?
小沢一郎に政策がないというけど、「日本改造計画」読んだのか?
人々は、日々溢れてくる情報洪水の中で、自ら調べる事の必要性を感じなくなっている。そして、麻痺して情報の質を問わなくなった。だからだろうか、メディアの中に、自分で検証するための「材料」を求めるのではなく、用意された「答え」を求めるようになった。
言いかえれば、考えるということに「怠惰」になったような気がする。
そのくせ、人間には、頭がいいと思われたい、もっともらしいことを言う人だと思われたいという欲求がある。
例えばテレビの街頭インタビューでマイクを向けられたとしよう。
「実は、いろいろ迷う部分もあるのだが、ダラダラしゃべっても、よくわからない事を言ってる人と思われるに違いない、それってバカっぽいよな。」
そんな風に思った人は、ある人は回答を拒否し、ある人は、とっさに、どこかで誰かが言っていたもっともらしい言葉を探す。
良いとこ取りのコピー&ペースト。テレビに出てたあの有名人の分かりやすい一言を探す。とりあえずは、この大変な時に代表選なんてやりやがってと、ダメな民主党を批判してみたりする。
それはテレビカメラの前だけじゃなくて、友人の前や、地域の集まりや、近所の井戸端会議でも同じだ。自分が一生懸命考えたのではない、一見、見栄えのいいコピペ発言が横行してはいないか?
そして、自信が無い人や、考え中の人が黙っているうちに、マスメディア的論調はどんどんコピペされて拡大する。
「見栄」と「怠惰」
これが、現在の日本を覆って、ダメにしている根本的な問題ではなかろうかとつくづく思う。
でも、一方で人間は自らを怠惰だとか見栄っ張りとか思いたくないから、無意識に、そんな自分の態度に対する言い訳を見つけようとする。
そんな言い訳の受け皿となるのが「世論」なのかもしれない。
みんなが言ってるから。多くの人が言ってるから、は最強の保証だ。
「世論」にすり寄る事で安心し、深く考える事を放棄するのだとしたら、
たった数百や1000程度の世論調査をあたかも日本国民の民意のように振り回すのは、ある意味、社会への暴力ではないのだろうか。
ちょっと話は飛ぶが、以前テレビマンユニオンの村木良彦氏の追悼番組の中で「あなたにとって幸せとは何ですか?」という、街頭インタビューのみの番組が紹介された。そこでマイクを向けられた人の言葉は、たどたどしくはあるもののそれぞれがそれぞれの色を持っていた。それは、あらかじめ「答え」が用意された質問ではないからだろう。
大抵、昨今の政治がらみの街頭インタビューというのは、すでにどこかで誰かが答えたことのある質問ばかりだ。
漠然と欲しい答えを想定しているメディアと、 適当に頭の良さそうなコメントを言いたがる国民と、その共犯関係が顔のない「世論」を作って行く。
今回の代表選騒動からもう一点感じることがある。
物事を自分の身に引き寄せないで、いわゆる「世論」にコレだけ多くの人がすり寄る事ができるというのは、不況だとか、生活が大変だとか言ってても、日本はまだまだ余裕があるんじゃないかということだ。
自分の明日の食い扶持よりも、小沢一郎の「政治とカネ」の問題を最重要争点として受け入れられるほど、日本人にはまだ理想的な政治を追い求める余裕があるのではないか。
大いなる皮肉を込めてそう思うのだ。
そもそも、今回菅さんが選ばれた主な理由の一つが、首相が3ヶ月で辞めるのは世界から相手にされなくなるからとか言ってるが、それこそ暮らしに余裕のある人の危機感の無い優等生的な意見だ。次の首相が「日本は本気だ」と真顔で言えば、世界だって対応は変わってくるはずだ。それは就任期間の問題ではない。
日本の「世論」というやつは、時間もお金も余裕があって危機感が無くて好きな事言っていられる絶対安全地帯な立場の人の言説に引きづられすぎる。
誤解を恐れずに言えば、「最小不幸社会」と言うのなら、政治は暮らしに余裕の無い人の声だけ聞いていればいいのである。
なのに、マスメディアを通して流れてくるのは、まだまだ余裕のある人々の「愚痴」ばかりである。本当に大変な人々は、マイクが突き出されるような場所にはいない。「叫び」はブラウン管からは流れてこない。
現代日本の「世論」とは「愚痴」である。
そして「愚痴」とは、利己的な考えから生まれるものである。
政治を考えるとは自分の置かれた立場から「公共」を考える事だ。
そしてそこから生まれた意見の集積が世論であるべきだ。
瞬発力だけで飛び出す「愚痴」ではなく、
ゆっくり自分の頭で考えてた意見で世論を形成したいもんだ。
最後になってしまいましたが一言
。もちろん深くものを考えている方はたくさんいると思います。街頭インタビューでも真摯な意見を耳にします。また、このブログをここまで読んでくださった方が、自分でものを考えない人であるはずがない。
今回のエントリーはそこがジレンマなのです。
さらには、私こそ偉そうな事書いて、実は論理が雑駁という、その事実こそ自己矛盾ではないかと頭を抱えるのでした。
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明日から浅草で下町コメディ映画祭ですが、この「政治とカネ」騒動は、コメディ映画にもできそうな題材ですね。テリーギリアムに、お笑い未来世紀ナガタチョウでも作ってもらいましょうか。特攻検察による管理社会を描くシリアス版でも可!
一番分かりやすいのが年寄りの詐欺被害です
あの人は良い人だから信じれば良いと簡単に信じてしまう
一般的な団塊の世代は思想家の思想を代名詞のように使い、賢いように振舞ってはいるが、詳細を具体的内容に掘り下げて話す事は聞かない
結局のところいつでもコピペの氾濫だと思います
一方で、地に足をつけて考える人は昔も今も確実にいると思います。
過去より今の方が圧倒的に進んでいるので
昔の考える人より、今の考える人の方が圧倒的に優秀なはずです。
小沢一郎も田原総一郎も若い人(30歳以下?)には期待できるといっています
逆にそれより上はダメともいっているような・・・