
ご祭神は、平家物語の華ノ本(はなのもと)姫
彼維義はおそろしきものの末なりけり。たとへば、豊後国の片山里に昔をんなありけり。〜豊後国にとツても日向ざかひ、うばだけといふ嵩のすそ、大なる岩屋のうちへぞつなぎいれたる。件の大蛇は日向国にあがめられ給へる高知尾の明神の神躰也。此緒方の三郎はあかゞり大太には五代の孫なり。かゝるおそろしきものの末なりければ、国司の仰を院宣と号して、九州二嶋にめぐらしぶみをしければ、しかるべき兵ども維義に随ひつく。-『平家物語 巻八 緒環』-
神の化身に見初められたのが、宇田姫こと華ノ本姫です。

1350年願主宇佐頼次により創建。地元の民話では、宇田姫は、姆嶽(うばだけ)大明神の化身との間に高田太郎、佐伯次郎、緒方三郎の三人の子をもうけたと伝わります。

清水が流れ出る穴は二つで嫗岳(うばだけ)大明神の化身である大蛇が棲んでいた穴森神社の岩窟に通じていると…

祇園精舎の〜でお馴染み平家物語、その巻八「緒環(おだまき)」は、古事記の大物主大神(おおものぬしのおおかみ)と活玉依姫(いくたまよりひめ)の物語に倣っていて、平家物語では藤原伊周を大物主大神の化身、緒方三郎惟栄(おがたさぶろうこれよし)をこの大蛇の末裔であると…
平安時代初期,藤原伊周は太宰権師として緒方の荘の萩とろ(現在の宇田枝)配流された。そこで娘ができた。伊周の娘(華の本)は比なき美人で叡聞に達し,天皇は伊周の罪を許され,華の本姫を宮中に入れられるべしとの宣旨あり。しかし,華の本姫は密契して懐妊していたため京に戻ることはできなかった。これ神の通ずるところなり。
産に及ぶ時神は娘に告げて,「姓は大神,名は大太といへり。」これによりて三輪明神(大物主命)の化現なることを知るとなり。
と,このように大神惟基を三輪明神の生まれ代わりで藤原伊周の娘,華の本姫を母としている。
古事記では、大物主大神が残した糸巻きが三勾(みわ、三巻)で、糸を辿ってゆくと三輪山にたどり着いたと云う物語なので、その地を美和、三輪。また、大神をおおみわと…
古事記では大国主神と結ばれたのは市杵島姫。その娘下照姫と結ばれたのは天若日子。

社殿右手にヤブツバキの大木。花が咲いていましたが、木に比べて非常に小さいので写っていないようです。

1587年黒田孝高(如水)が、豊臣秀吉より豊前国6郡12万3000石を与えられ、馬ヶ岳城(現行橋市)に入城、
翌年に中津城の築城を始める。中津城の立地は、冬至の日に朝日が宇佐神宮の方から昇り、夕日は英彦山の方に落ちる。また、八幡古表神社と薦神社とを結ぶ線上でもあります。

中津城に残る如水が普請した石垣は、現存する城郭の石垣としては九州最古。本丸上段北面石垣(模擬天守北面下)は、黒田家の石垣に細川家が石垣を継いだ境が見られます。
如水は築城の名手。自身が居住した妻鹿城、中津城や福岡城の他、姫路城、大坂城、讃岐高松城、石垣山城、名護屋城、広島城など、秀吉政権下で総奉行として縄張りや助言を行った。
加藤清正は、自分の城は3、4日で落ちるが、福岡城は30から40日は落ちないなどと賞賛している。西には草が江を利用した広大な池沼濠(大濠)、東から攻めてくる敵軍に対する防壁としては、博多に面した那珂川に長さ1.5キロにおよぶ高石垣が築かれており、川の上流にはいつでも使えるように材木が貯蔵されていたように、いつ戦になってもいいように万全の備えがなされていたことによる。

城井鎮房を祀った城井神社
肥後の一揆征伐で如水が中津城を留守の間に、嫡男の長政は、敵対していた城井鎮房(宇都宮鎮房)を中津城内に引き入れ謀殺。
1600年 - 黒田家は関ヶ原合戦の時、徳川方につき、中津城から西軍の所領を攻めた。長政の戦功により筑前52万石に加増、名島城に転封となり築城が中断。同年 - 細川忠興が豊前国と豊後国2郡39万石で入封。大修築を開始。
1602年- 忠興は小倉城築城に着手、小倉城を主城、居城とし修築中の中津城の城主は細川興秋。
1621年- 扇形の縄張りに拡張され、中津城が完成。扇城とも呼ばれる。
1632年 - 細川家の熊本藩転封に伴い、小笠原長次が8万石で入封し事実上中津藩が成立。
1717年- 奥平昌成が10万石で入封。明治維新まで奥平家の居城。
家康は長政に勲功として豊前国中津12万石から筑前国名島(福岡)52万石への大幅加増移封。如水は領地加増を辞退し、隠居生活へ。晩年は福岡城に残る御鷹屋敷や、太宰府天満宮内に草庵を構え、上方と福岡を行き来。
1604年4月19日辰の刻、京都伏見藩邸にて死去。享年59。辞世の句は「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」。死の間際、切支丹でもあった如水は自分の「神の小羊」の祈祷文およびロザリオを持ってくるよう命じ、それを胸の上に置いた。変わらないものをもちながら、なるにまかせた如水だったのでしょうか。
翌年に中津城の築城を始める。中津城の立地は、冬至の日に朝日が宇佐神宮の方から昇り、夕日は英彦山の方に落ちる。また、八幡古表神社と薦神社とを結ぶ線上でもあります。

中津城に残る如水が普請した石垣は、現存する城郭の石垣としては九州最古。本丸上段北面石垣(模擬天守北面下)は、黒田家の石垣に細川家が石垣を継いだ境が見られます。
如水は築城の名手。自身が居住した妻鹿城、中津城や福岡城の他、姫路城、大坂城、讃岐高松城、石垣山城、名護屋城、広島城など、秀吉政権下で総奉行として縄張りや助言を行った。
加藤清正は、自分の城は3、4日で落ちるが、福岡城は30から40日は落ちないなどと賞賛している。西には草が江を利用した広大な池沼濠(大濠)、東から攻めてくる敵軍に対する防壁としては、博多に面した那珂川に長さ1.5キロにおよぶ高石垣が築かれており、川の上流にはいつでも使えるように材木が貯蔵されていたように、いつ戦になってもいいように万全の備えがなされていたことによる。

城井鎮房を祀った城井神社
肥後の一揆征伐で如水が中津城を留守の間に、嫡男の長政は、敵対していた城井鎮房(宇都宮鎮房)を中津城内に引き入れ謀殺。
1600年 - 黒田家は関ヶ原合戦の時、徳川方につき、中津城から西軍の所領を攻めた。長政の戦功により筑前52万石に加増、名島城に転封となり築城が中断。同年 - 細川忠興が豊前国と豊後国2郡39万石で入封。大修築を開始。
1602年- 忠興は小倉城築城に着手、小倉城を主城、居城とし修築中の中津城の城主は細川興秋。
1621年- 扇形の縄張りに拡張され、中津城が完成。扇城とも呼ばれる。
1632年 - 細川家の熊本藩転封に伴い、小笠原長次が8万石で入封し事実上中津藩が成立。
1717年- 奥平昌成が10万石で入封。明治維新まで奥平家の居城。
家康は長政に勲功として豊前国中津12万石から筑前国名島(福岡)52万石への大幅加増移封。如水は領地加増を辞退し、隠居生活へ。晩年は福岡城に残る御鷹屋敷や、太宰府天満宮内に草庵を構え、上方と福岡を行き来。
1604年4月19日辰の刻、京都伏見藩邸にて死去。享年59。辞世の句は「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」。死の間際、切支丹でもあった如水は自分の「神の小羊」の祈祷文およびロザリオを持ってくるよう命じ、それを胸の上に置いた。変わらないものをもちながら、なるにまかせた如水だったのでしょうか。



神功皇后が大分宮、香椎宮と
ここに植えた樟の木
朝日さす 香椎の杉に ゆうかけて くもらずてらせ 世をうみの宮 西行

応神天皇御降誕地

神功皇后御神体像安置

ご開帳

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