ダーウィンは自伝で「どんなに気に入った仮説でも、事実がそれに反すると証明されればすぐそれを放棄するため、いつでも自分の心を自由にしておくように努めてきた。」と書いている。
自由であれば、真実をつかむことができる。「種の起源」は、ダーウィンの「気に入った仮説」ではなく、「真実」であろう。
中国訪問中のオバマ大統領は16日、上海で500人の学生との懇談会に出席し、演説した後、参加者やインターネットサイトからの質問に答えた。ワシントンポスト紙は、同イベントの参加者は厳しい選抜を経ており、大多数は共産党員であると報じた。国内情報筋からも確認されている。
今回の懇談会は上海科学技術博物館で行われ、上海の名門大学・復旦大学の学長が進行役を務めた。駐中国米国大使ジョン・ミード・ハンツマン氏が大統領に同伴した。 演説後、大統領は、在席の若者やインターネットサイトからの質問に答えた。内容は台湾問題、米中貿易、ネット検閲、環境問題に及んだ。中国国内情報筋によると、会場の質問者のうち、2人の「大学生」の実際の身分は、復旦大学の青年団委員会研究室の副主任と同済大学外国語学院の青年団委員会の書記だった。米紙「ワシントン・ポスト」によると、参加者は当局の厳しい選抜を経ており、大多数は共産党員だった。参加者からの質問は、中国当局の意向を強く反映しており、中国当局の厳密なコントロールの状況を露呈したイベントだったなどと報じている。
中国語が堪能なハンツマン米国大使が、インターネットからの質問を代読した。それは、中国当局のネット情報封鎖システム「ファイアウォール」について問題提起し、中国人はTwitterを自由に利用すべきか大統領の意見を仰ぐ内容だった。TwitterやFacebookなどの人気サイトは、中国国内では封鎖されている。それに対して、大統領は、インターネット検閲を支持しないことを表明。「米国ではインターネットの利用に制限はない。私たちのパワーの源であり、支持されるべきである。自由な情報が流通すればするほど、その社会は強くなっていく。そして、世界各地の公民が自国の政府に責任を問うことができるようになる」と述べた。中国の官制メディア「新華社」の公式サイトの関連報道では、この部分の発言内容が削除されたもよう。
懇談会終了直後、国内50以上のサイトがこの発言内容をすぐに報道あるいは転載した。しかし、同日夜8時には、そのほとんどが削除されていた。上海市のローカルテレビ局「上海電視台」は今回の懇談会を放送した。一方、全国放送する最大の官制メディア・中央テレビ(CCTV)は放送しなかった。「新華社」は紙面報道に止め、映像は配信しなかった。ホワイトハウスの公式サイトでは生中継で報道された。 ~大紀元日本より
みなさん今日は。私は、上海へ来てあなた方と話し合うチャンスに恵まれとても光栄に思っています。私は復旦大学の楊校長に感謝します。楊校長の手厚いもてな しと熱烈歓迎に感謝します。また私たちのすばらしいジョン・ミード・ハンツマン(洪博培)大使に感謝します。彼は中米両国の間をしっかり結び付けています。私は、彼がさっき何を話したかわかりません。きっと、いいことを述べたと思います。私は今日こう考えています。先に、前置きを述べます。私が本当にやりたいことは、このこ会場にいる方々の質問に答えること、この会場にいる学生諸君の質問に答えるだけでなく、更にネットからの質問や、一部の学生諸君がジョン・ミード・ハンツマン大使に質問を寄せていた質問に答えたい。申し訳ありませんが、私の中国語はあなた方の英語のように流暢ではありません。それだからこそ、私はあなた方と対話したいと思っています。
今回、私は初めての中国訪問です。私は、あなた方の広く豊かな国を見て、とても興奮しています。上海という場所は見るところが一杯です。高くそびえるビル、忙しい街中、企業家スピリットがみられます。これらは中国が21世紀に踏み込んでいる証拠で、私は感心してしまいました。同時に私は中国の昔の建物が見たくてたまりません。明日と明後日、私は北京へ行き、壮麗な故宮と壮大な長城を見てきます。中国は悠久の歴史があり、また将来に対する憧れと信念があります。
ところで米中両国の関係はこうです。上海は米中関係の歴史にとって意義のある重要な都市です。30年前、《上海コミュニケ》が、米中両国政府と両国国民の接触・交流の新しいページを開きました。ですが、米国と中国のきずなは更にもっと古い昔に遡ることができます。米国の独立初期まで遡ります。ジョージ・ワシントンはクイーン号の進水式を行い、この船を大清王朝に向かわせる計画を立てました。ワシントンはこの船が各地を回り、中国と新しいきずなを結ぶよう希望しました。中国が新しい地平線を切り開き、新しいパートナー関係となるよう望みました。その後の2世紀を経て、歴史の大きな流れは米中両国関係をいろいろと違った方向へ向わせました。たとえ動乱の方向にあっても、米中両国国民のきずなは深く、時には劇的なきずなもありました。たとえばアメリカ人が永遠に忘れることができないのは、第二次世界戦争の時、米国パイロットが中国上空で撃墜された後、現地の人々が彼らを手厚く助けてくれました。中国の人々はすべての危険を冒して彼らを守ってくれたのです。その彼らは、また中国の地から参戦して行きました。
40年前、米中両国はまた連絡を取り始めました。両国関係は卓球の試合を通じて、雪どけが始まりました。米中両国の間には意見の相違がありましたが、しかし私たちには共通の人間性と共通の好奇心がありました。卓球選手のように、あの国も同様なのだと思ったのです。この小さなキッカケが《上海コミュニケ》の発表をもたらしたのです。最終的に1979年、米中の国交が樹立されました。その後の30年間、米中両国は著しい進展を遂げました。1979年の米中貿易は、わずか50億ドルだったものが、今では4000億ドルを上回っています。貿易は多くの面で、人々の生活に影響しています。たとえば米国のコンピュータの中のたくさんの部品や衣服はすべて中国から輸入しています。米国は中国に工業用機械を輸出しています。このような貿易は太平洋の両方に多くの就職のチャンスを作り、私たちの国民の暮らしを向上させています。需要がバランスがとれていれば、この貿易は更に大きくすることができます。今、私たちは積極的、全面的協力関係を結び、当面の重大な世界的問題でパートナー関係を築き、門戸を開いています。これらの問題とは、経済回復、クリーン・エネルギー開発、核兵器拡散阻止、そして気候変動対応などです。またアジアと世界各地の平和と安定を促進することもあります。これらすべての問題は、私が明日、胡主席との会談で話し合います。1979年当時、米中両国国民の関係は極めて限られていました。今日、当時の卓球選手が好奇の目で見ていたものが、多くの分野で築かれたものの中で見ることができます。米国で一番多い留学生は中国からです。一方、米国の学生の中で、中国語を勉強する人が50%増加しました。米中両国は200近くの友好都市があります。米中の科学者がたくさん、新しい研究領域と発見領域で協力し合っています。ところで米中両国国民はとてもバスケットボールが好きです。姚明がいい例です。でも今回の旅行では、私は上海シャークスの試合を見ることができず、ちょっと残念です。