近親者の通夜、告別式に参列した。
通夜は午後4時から8時まで。
翌日は、午前10時から1時まで初七日の法要も含んだ告別式に参列。
そのあとは火葬場へ移動。
会食もあって、火葬場を出たのが午後4時。精神的にも体力的にも疲労した。
駐車場から、火葬場の煙突を見上げて、思い出したのは
あだし野の露消ゆる時なく、
鳥部山(とりべやま)の煙立去らでのみ、
住み果つるならひならば、
いかにもののあはれもなからん。
※あだし野~京都嵐山の墓地
※鳥部山~京都東山の火葬場
というご存じ徒然草の一節だ。
鳥部山の火葬場では常に火葬の煙が立っていたのだろうが、この火葬場は住宅街にあるから煙など立たない装置が付いているのだろうか。筋煙は見えなかった。
故人は享年76歳。ちなみに故父は77歳だった。
私は70歳、もう少しで追いつく。
で、自分の死も「もののあはれ」の一環として受け止める覚悟はできたのかい?
当の兼好法師も「40歳くらいで死ぬのが見苦しくない」と説きながら、法師自身は70歳近くまで生きたようだが (笑)。