大空を見上げて

日頃感じていること

苦難の日々(終戦)

2017-09-09 | Weblog

終戦の昭和20年10月、私はプサンから日本の九州博多港へ家族で引き揚げての懐かしい想い出の地です。と言っても当時私は4歳、何も覚えていませんが以前亡き父から聞いた話をさせていただきます。

敗戦国日本、特に外地にいた日本人は朝鮮人や中国人の暴動に悩まされていました。

昭和20年9月末、父と私達姉弟は仁川(インチョン)の日本鉄道の日本人住宅で夕食をしていました。
隣りから女性の声で「土足で何ですか!何をするんですか!」そして朝鮮語で幾人かの男の怒鳴る声が聞こえて来たそうです。
父はこれは異常事態だ、普通ではないと危険を感じ、私達子供を押入れに隠し何があっても声を出すなと言って子供の茶碗をかたずけました。卓袱台に座っていたら25~6人の朝鮮人が土足で何か怒鳴りながら入って来たそうです。 
頭に「朝鮮青年行動隊」と書かれた鉢巻をしていたそうです。
父は明治の男ですから「何だ!貴様ら!」と怒鳴り返したら、表に引きずり出され、後手に縛られこずかれながら街の真ん中にある広場まで引き立てて行かれました。

そこで日本人は次から次へと斧で殴り殺されたそうです。

父はこの時死を覚悟したようです。ただ子供達の事が心配だったと言っていました。もし父が亡くなっていたら私達子供達も天国の母の所行ったと思います。
自宅から広場まで500メートル位で、引き立てられて行く途中、30名位の朝鮮の違うグループとすれ違い、そのグループのリーダーらしい朝鮮人が父の顔を見て「松田さんじゃないですか」と言いました。 
その人を見るとキムさんと言って母(同年8月死亡)がよく自宅に招いて学費や食事等お世話し、懇意にしてた人でした。
リーダー同士で話し合い、父は解き放され、キムさんに今晩中に逃げる様にと言われたそうです。

私達は父が帰宅するまで押入れに声を立てず隠れていました。
父が帰るとすぐ荷物まとめていたので、それぞれ手分けしてリュックを背負い夜中でしたが線路に沿って隠れ隠れ何キロも歩いたそうです。
朝鮮人のグループは数え切れないほどいて、私達日本人を汽車に乗せまいと襲ってきます。
日本人が駅に何百人も集まっても朝鮮人はその何倍もいてとても危険でした。
これも父から聞いた話ですが、日本人を守る為12歳~18歳までの若者(元日本兵も)
に志願させて150名位いたそうです。
白虎隊の鉢巻をして木刀や素手で何万人もの朝鮮人集団に向かってと戦ってる間に、日本の家族を汽車に乗せたそうです。

緊急連絡を受けた米軍MPが駆け付けた時は日本の若者白虎隊は全員死んだそうです。
ソウルからプサンまでまだいろいろな事があったと聞いています。汽車は何度も止まり朝鮮人の暴動グループ襲って来て。草むらに隠れ夜を明かした。
父は言いました。いつでも、最後の死は覚悟していた。もし逃亡困難の時は姉達小刀を渡していた。いざの時は喉を突いて母ちゃんの天国いくのだと!言い聞かせた。父は私の命と自分の命をと!覚悟していたとの事。ただ子供達には何とか日本に無事帰国をと懸命だったと。
現在私が今生きている事を不思議に感じます。生かされている事、感謝しています。

                  

                        

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