大雪の影響で新潟県の関越自動車道で車およそ2400台の立ち往生が続いていたが、新潟県知事より自衛隊災害派遣徐々に解決に向かっている
〈関越道〉車中に40時間 物資届かず「雪をとかして飲んだ」 ドライバーの支え合い援助を待っていたとの事。
私はこのニュース聞きながら、遠い昔の猛、豪雪災害派遣を思い出していました。
「若き日の懐かしい青春でした。 私は空挺隊員となって2年、大空の花として夢誇らしく胸に抱いて頑張っていました。
昭和38年2月、前年12月より降り続いた雪が過去の記録にないほどの大雪となり、北陸地方は交通がすべてマヒし非常事態になった。総理大臣より要請、防衛庁より千葉の第一空挺団に豪雪災害派遣の派遣命令が下りました。、空挺団総力上げて準備、私達は新潟の栃尾市に向かった。
先遣隊30名の私達は新潟県栃尾市のスキー場にへりコプターで落下傘降下し、物資も投下本隊600名は
輸送機で栃尾のスキー場では狭い為、長岡の大きいスキー場に降下したように記憶しています。
又長岡の見附より40㎏の荷物を背負って20kmの道のりを雪を掻き分け目的地に着いた。日頃鍛えている約5oo名空挺隊員(他地区も分散)にとってもかなり厳しく辛かったように聞き記憶している。
約1ヶ月半、空挺隊員総勢1500名は道路や電車通す為猛烈に作業に従事した。10日後には昨年より途絶えていたすべての交通が可能になり食料、物資が栃尾市にドンドン送りこまれた。
私達は市をあげて喜ばれ涙を流しながら握手された。
私は滞在中栃尾小学校を宿舎として使わせていただき、夜子供達が自衛隊のお兄さんと言って遊びに来た。
私は昼間の重労働でかなり疲れていたが、子供達小学1,2年達の無邪気な人懐っこい顔を見ると癒され毎日抱っこしたり、おぶったり又ゲームをして遊んであげた。 その後、市内の道路、民家の屋根、公共の施設等雪排除作業に従事した。
全ての任務が約二ヶ月間初春の候、終わり撤収の時期がきて帰る時、栃尾市の住民が何百名も栃尾駅に見送りにきた。
駅前で栃尾高校の吹奏楽部と関東から駆け付けた自衛隊中央音楽隊の演奏で別れの式典が盛大に行われた。
「ほたるの光り♪」の演奏いよいよ別れの時、大勢の中から一人の女の子が目に涙して私の側に駆け寄って来た。
私が毎晩のように小学校の体育館で鬼ごっこや抱っこしたりおんぶしたK子ちゃんだった。
私は涙を拭いてあげながら親に挨拶して栃尾市を去った。
3月下旬桜咲く習志野にやりとげた清々しい気持ちで、全隊員無事帰隊した。」
奇跡的「再会」
それから20年後、私が東京の自動車学校の教官をしていた時の事。
28歳位の女性を指導中原簿を見たら、本籍が栃尾になっていた二時間連続の教習担当だったので、休憩時間に昔私は栃尾に豪雪災害派遣に行った事や、いろいろな出来事など思い出を話しているとその女性は目に涙をためて、「その女の子は私です」と言われて私は本当にビックリしました。
改めて原簿を確認すると。 間違いなくK子ちゃんです。
彼女も私も懐かしさでしばらく涙が止まりませんでした。なんとも言えない再会に感動し、涙をながしながら指導したように覚えています。
「その時の自衛隊のお兄ちゃんの事は今でもしっかり覚えています!忘れていません」と言ってました。
彼女は結婚してお子さんが二人いて当校の託児所にあずけての練習でした。
その後、私が担当し免許取得までお世話しました。
後日ご主人共々ご挨拶に来られました。
ご主人も栃尾の方で、何度もお礼を言われて、私との事は家族皆の思い出として一生大事にしますと言っていました。
人の世の常なりと言えど出会い、嬉しい再会、別れ等心温まるの人との想い出に感謝。
本当に不思議な再会で私も懐かしい想い出として大事に記憶しています。
(当時の写真を見つけました。K子ちゃんを教習中)
再会 松尾和子