こうして大塚番作は軽傷ではあったが、一昼夜かなりの道を走ったので、疲れとともに傷が痛み、一晩中ぐっすりとは寝られなかった。
枕に聞こえる松風、谷川の音が騒がしく、寝るというよりはまどろみ、襖越しに話し合う声に目が覚めた。枕から頭を上げて良く聞くと、男の声である。
庵主が帰ったのだろうか、何を話しているのだろうと耳と澄ますと、たちまち婦人の泣き声が聞こえてきた。
「それは承服できません、人でなしでございます。迷いの苦しみから皆様を救って、悟りの世界に渡し導くことが仏の教え、導くことはできなくとも、心を穢す破戒の罪、法衣に恥じずに刃で人様を殺そうとするとは、余りにも無情でございます」
これはまさしく宿を貸してくれて、自分をここに留めたあの婦人だ。さては庵主は破戒の悪僧で、かよわき少女を妻にして、それを餌に旅人を留めて密かに殺して物品を盗る山賊まがいに違いない。
何とか君父の恨みを晴らし、恥を雪ぎ、危難を逃れて、ここまで来たというのに、おめおめと山賊の手に掛かって死ぬ訳にはいかない。
先んずれば人を制す。こちらから打って出て、山賊を皆殺しにしてやろうと決心して、騒がず、静かに起きて帯を引き締めた。刀を腰に手探り手探り、襖の近くへ忍び寄って、建付けの歪みから様子を垣間見た。年齢四十あまりの僧侶が手に一丁の菜切り包丁を振り上げて、婦人に向かって脅し、そしてすかしている。言うことははっきり聞こえないが、自分を殺そうとする面魂、婦人はそれを止められずに、髪を振り乱してよよと泣くばかりだ。
【山院に宿して、大塚番作、手束を疑う】
手束ちゃん、大ピンチ!!
刃物を振るうお坊さんて何か怖いです
自分への害意はもはや明らかだ。大塚番作は少しも疑わずに襖を蹴り開き、厨房の中へ躍り出でた。
「山賊め、私を殺す気か。私がまず貴様を成敗してやる」
と罵り、すかさず飛び掛かれば、悪僧はひどく驚いた。悪僧は手に持っていた刃を閃かして、振りかぶる。
大塚番作は切ろうとする拳の下を潜り抜けて、悪僧の腰の辺りを蹴る。悪僧は蹴飛ばされて、前によろよろと五六歩進み、ようやく踏みとどまった。振り返って再度突き掛って来るのを、右へ流し、左に滑らし、数回交わして、疲れたところをつけ入り、遂に刃を打ち落としてやった。
慌てた悪僧は逃げようとしたので、大塚番作は菜切り包丁を拾い上げて、
「賊僧め、天罰を思いしれ」
と罵る声と同時に、浴びせかけた刃の電光が悪僧の背筋を深くつんざいた。急所の痛手に我慢できず、悪僧は苦しそうに叫び、その胸先をとどめの切っ先が刺し貫いた。
悪僧を貫いた菜切り包丁を引き抜き、血を垂らした刃を拭って、大塚番作は、戸惑って、逃げられずに沈んだままの婦人に向かった。
そして眼を怒らし大きな声で、
「お前は甲夜(戌の刻、19時から22時)に私に飯を恵んでくれた。一碗の恩があるのは間違いない。また賊僧が帰って来て、私を殺そうとしたのを止めてくれた。これには憐れむが、賊僧の妻となってこれまでに多くの人を殺し、その数は分からない。であるから、逃れられることのできない天誅を加える、速やかに白状して刃を受けよ。覚悟せよ」
と問うが、婦人はわずかに頭を上げ、
「そのお疑いは身に覚えがございません、あなた様の心の迷いです。私は元からそんな者ではございません」
と言ったそばから大塚番作は嘲笑う。
「いい加減なことをいろいろ言って、時を稼ぎ、仲間の小賊たちが帰って来るのを待ち、悪僧の夫のために恨みを晴らすと思うお前の胸中、私はそんな小細工に乗ったりはしない。真実を言わないのであれば、これで吐かせてくれよう」
と打ち閃かす菜切り包丁の光を婦人は飛び退いた。
「お待ちを、お待ち下さい、言わねばばらないことがございます」
婦人は言うが、大塚番作の賊を許そうとしない怒りの切っ先は、どこまでも付き回した。刃先に対して楯のないなよ竹が雪に折れようとする様子で、右手を伸ばし、左手を衝き、片膝立てて身を反らして、後ろ様に逃げ回る。
大塚番作は逃すまいと打てば開き、払えば沈み、立とうとすると頭上に閃く氷の刃を振り回す。婦人は片手を懐へ手を差し入れ、切ろうと迫る眼の先に取り出した一通の文を突きつけた。
「これを見てお疑いをお晴らし下さい。お聞き届け下さい」
両手に持った文には、その身の素性が筆に示されている。大塚番作は文を良く見て、思わず刃を持ち直し振るうのを止めた。
「理解できない書状の名前と印。僧侶の妻か、賊婦の恋文かと思ったが、どうやらご立派な勇士の遺書に見える。何か訳があるのだろう、その訳を語るがいい」
と刃を畳に突き立てて、ようやく片膝を立てて座った。
婦人は書状を巻いてしまいつつ、眼を拭って言った。
「思いも掛けず、お寺の留守を頼まれてから今宵の厄災。それに加えて、あなた様が今、私の話を聞くことは、無理ではございますまい。もう隠す理由もございません」
覚悟を決めた様に婦人は語り出した。
「そもそも私は神坂の住人、井丹三直秀(いのたんぞうなおひで)の娘で、手束(たつか)と呼ばれる者でございます。父の直秀は鎌倉殿【足利持氏を言う】の恩顧の武士でしたので、足利持氏公の滅亡と両若君が結城のお城へ立て籠もりなさったことを聞くと、そのまま神坂を発ち、手勢わずか十余人を供として結城に馳せ加わりました。合戦は年を明かしましたが、若君はご武運が開かず、前月の十六日に結城の城が落とされてしまい、名のある方々とともに父の直秀も討たれてしまいました。この書状は今際の遺書です、落城のその足で家の老僕が持ち帰って、神坂へ返しに参りました」
結城の籠城組の子女であったとは、大塚番作は驚いた。
「母は昨年からあちらの空をずっと眺めていて、物思いに耽り、果ては気弱に病んでしまいました。命が危うくなった折りも折り、無常の風の便りが届いて、結城の没落、父の最期を知らせに来た老僕さえ、傷だらけ。また帰国の疲労で、これ以上生きていることはできないと追い腹を切って、すぐに落命してしまいました。家に仕えていた者どもも、賊軍の縁座の咎を恐れて、頼り甲斐もなく早晩逐電してしまい、一人も残りませんでした」
手束と名乗った婦人は嘆いた。
「何をしようとしても我が身は一つだけ、看病するにも親と子だけですが、音にのみぞ鳴く空蝉の秋をもまたで弱りゆく、母は今月十一日に遂に亡くなりました。葬儀のことなどは、わずかに親しき里の人々のご厚意によって、その日の黄昏にこのお寺に送って下さいました。昨日は父の初月忌、今日は母の初七日なのです。心ばかりの布施を持って、昨日も今日も亡き親の墓参りをする度に、庵主はそれはもう親切に私を慰めて下さって、しばらくの間と言って庵の留守を私に任せて出て行ったのです。このお話は戌の刻にすでにあなた様にお話ししました。このお寺は拈華といい、庵主の法名は蚊牛(ぶんぎゅう)という名だそうです。あちらこちらの人が帰依していて、我が家もまた檀家でしたので、まったく疑うこともなく頼まれても断れずに庵の留守番をして、日が暮れて」
そこから先は言いにくそうだったが、手束は何とか切り出した。
「庵主が帰った後に、悪心あっての所業と分かりました。浅ましいことにこの法師はいつの間にか私に懸想しており、私を一晩泊めるために謀って留守を頼んで、真夜中に帰って来て、私を捉えて口説くのです。法師にはあるまじき、淫らな行為に私の胸は潰れ、拒んで近くへ寄せつけない様にしておりましたら、とうとう菜切り包丁を閃かして脅すうちにその声は高くなってしまい、遂にはあなた様に疑われ、思い掛けなく殺されてしまいました。宿世の因果でしょう、仏の弟子として色を貪り、嘘偽りを持って私を留め、強いて乱暴をしようとした天罰は、立ちどころに自分の身に及んだのです。それは悲しむべきことです」
手束は悲しそうな顔になった。
「ですからあなた様を泊めたことを庵主に告げる暇がなく、庵主はすぐに迫ってきたので、他に人がいるとは気づかなかったはずです。あなた様はみずから顧みて、そのお疑いをお晴らし下さい。私は、結城の残党、他の人の凋落を自分の利にして、捕縛して都へ連れて行こうとするならば、逃れられるための路はないでしょう。人を殺して物を盗る賊婦などとは、思いも掛けない濡れ衣です。晴らさなくては死ねません。それだけではありません、亡き親の名を汚すことができないのです、そう思えばこそ惜しくもない命を惜しむのでございます」
そう言って眼を拭う雄々しき少女の物語に、大塚番作は小膝を打った。
「さてはあなたは井丹三直秀様のご息女であったか。今示された一通に直秀氏と読むことができたが、同名の別人がいるかもしれないと思ってしまいました、ご事情を聞くまでは、といまだ私は名を言っていませんでした。父は鎌倉譜代の近臣、大塚匠作三戌が子、番作一戌と言います。籠城の始めから両若君を大事にお世話して、あなた様の父と我が父はともに城の搦め手を守っていたので、親しく話し合う様になりました」
大塚番作は落城の日のことを思い出した。
「落城するになって、少し考えることがあって私は父と一緒に虎口を逃れて、両若君の後を追い掛けて、垂井まで行きました。しかし若君たちはそこで討たれてしまい、父の匠作も討死にしたのです。私は当座に親の仇である牡蠣崎小二郎という者を討取り、君父の首を奪い取り、血戦を挑んで必死に逃げました。そして一昼夜で二十余里(80キロ)も遥かに走ってきたので、三つの首を埋めようと思った矢先に、こちらの寺院の墓所に行き当たりました。おあつらえ向きに新仏がいたので、近くの土を掘り起こし、密かにそこへ埋めました」
手束は眼を見張って、大塚番作の話を聞いている。
「その後は宿を求めましたが、私は落武者ですので吹く風の音にすら用心します。先に法師の体たらくを見て、その話を良く聞かずに私を傷つけようと思ってしまい、少しも疑いもせずに早まって法師を倒してしまいました。軽率でそそっかしい話ではありますが、知らないうちにあなた様を救い、図らずも悪僧を倒したことは天罰です」
面はゆい様子で大塚番作は続けた。
「こう言うと、何やらあなたに懸想している様で言いにくい話ですが、結城籠城の日に直秀殿は我が父に約束をしました。若君の武運が開いて東国が平穏になったら、娘が一人いるのでご子息の嫁にいたしましょう。それは公私ともに幸いでございますので、必ず頂戴いたしますと約束をした親たちは本意を遂げずに討死にし、その子供たちはともに必死の危難を逃れてここで名乗り合う。私たちにどうにもならないのは命です。もし誤ってあなた様に危害を加え、後にそれに気づいたら、亡き親たちに手を合わせ、何と言ったら良いか分かりません。実に危ないところでございました」
人の身の上、我が身の上を説明する言葉に真心が籠っていた。
手束は大塚番作の話を良く聞き、件の書状を再び開いて、
「前からお名前をお聞きしておりました。思いも掛けず番作様、ここで名乗り合うとは、いつまでも変わらない縁でございましょう。これをご覧下さい、我が父の今際の果てに遺した手紙の筆跡、もう引き留めることのできない父の手紙、あなた様のことをひどく心残りに書いています。この契りは空しいものではございません、若君と親との三つの頭を埋めなさったすぐそばの新仏は、私の母の墓なのです。親と親が決めた夫婦というのも恥ずかしいことではございますが、今日からは苦難をあなた様とともに過ごしたいと思います、そのほかに望みはございません。あなた様の望む様になさって下さいませ」
そう言って手束は顔を隠すのだった。
一方の大塚番作はそれを聞いて感嘆し、
「図らずもここに舅と姑が塚に並んで、両若君の遺骨を守って下さるだけではなく、約束も固くあなたと私をめぐり合わせて下さった。これもまた亡き親の魂の導きに疑いはありません。あなた様と手を携えて、浮世を深く忍んで行こうと思います。しかし我々の親の喪に服さなくてはならないから、すぐに夫婦になるのは不本意である。十三か月の喪が明けてから、改めて夫婦となりましょう」
手束はうなずいた。
「私もその様に思います。あなたはすでに蚊牛法師を殺してしまいましたが、今は誰も知りません。後に災いになるかもしれません。それを思うと神坂の私の家にも連れてはいけません。信濃の筑摩には母方の所縁があります。特にそこの温泉では刀傷に効能がありと聞きます。昔、飛鳥浄御原宮の帝、天武帝がこの温泉に行幸なさろうと軽部足瀬らに仮の宮を作らせました。そこは今も御湯と呼ばれております。私と一緒に参りましょう、筑摩の里へ」
と勧めると、大塚番作はそれに従って、
「空が明けないうちに」
そう言うと急いで手束を伴って、拈華庵から出て歩き出した。進むことわずか五六町(500~600メートル)で後ろを振り返れると、寺院から火が燃え出しており、進む方向すら赤く照らし出している。
手束は驚いて、
「恐ろしい、出発する時に慌てて火を消さなかった。あれは私の過ちです」
と呟いたが、大塚番作は笑って、
「手束、そんなに驚ないで欲しい。拈華庵は山寺で、浮世には遠い良いところだが、乱れているこの世に戒律を守り、品行の正しい清僧は稀だ。蚊牛法師すら色を貪ろうとし、そぞろに悪心を起こしていた。蚊牛が死んで後に住む者がいなければ、恐らく山賊の棲家となってしまうだろう、と思ったので出る時に、灰の中の火を起こして、障子やすだれを掛けてきたのだ。これであの寺院は灰燼と化すだろう」
一瞬、大塚番作と手束の顔が赤く照らされた。
「蚊牛には罪があり、ただ彼は欲望を遂げられずに、我が手で死んだこと、憐れむ気持ちもない訳ではないが、やはり気持ちを落ち着けることができない。だから法師を火葬してやり、彼の恥を隠してやることは、我が一片の老婆心。またここは君父の墓地であり、燃やすことは良くないが、山賊の棲家とするには忍びない。やむを得ないことだ。私がもし後に大きな志を手にした時にはここに大きな伽藍を建立しようと思う。難しいことかもしれないけれど」
大塚番作が諭すと、手束は番作の思いを初めて悟り、また感じ、また嘆き、拈華庵の猛火を明かり代わりにして、後に続き、時には先を歩き、道を急いで進むのだった。
ここにまた武蔵国の大塚の里には、母と一緒にずっと忍んで暮らしていた大塚匠作の娘亀篠(かめざさ)がいた。彼女は前妻の子であるので、大塚番作には異母姉である。しかし彼女は父にも弟にも似ない不肖の姉だったので、親や同胞の籠城を思いやることもなく、まして継母の苦労や苦心をこれっぽっちも分かろうともしなかった。更に色気づく年ごろから髪を結ったり、化粧することにうつつを抜かし、それは春の日よりも長く、馴染みの男と忍びあう日は秋の夕べを短くさせていた。
愚かなる手弱女と言っても、実の子ではないだけに母親は厳しく叱ることはできずに、ただ苦々しく思ってはいたが、その上とうとう多病になってしまった。
そして亀篠は、同郷の弥々山蟇六(ややままひきろく)というならず者と深く交わる様になった。二人はまるでニカワで繋いだ様にいつも一緒で、少しも離れようとはしなかった。
一層二人は仲良くなり、生死不明の父の籠城、母の苦労を幸いにしてか、婿を取るべき状況になったが、あれこれ過ごしている間に、結城の城が落とされ、父匠作は美濃路の垂井にて討死にし、弟の番作は行方不明、と今年七月上旬に大塚にも伝わってきた。ただでさえ思い悩んで病気がちな母親は、どうしてと嘆き悲しみ、その日から病床から起き上がれなくなり、白湯も水も咽喉をなかなか通らなくなった。死を待つ他になくなってしまったのだ。
亀篠は、
「私一人では母の病を看病できない。前から頼もしき人と思っていた蟇六殿を雇いましょう」
と言って、そのまま弥々山蟇六を家に引入れて、人目を気にして薬は与えたが、母を粗略にする始末だった。蟇六とともに食事を取る様になり、ともに夜を過ごすことをあるまじき楽しみと思う様になった。
そのうちに母親はその月の最後の日に、四十の月を見ることなく、ついに亡くなってしまった。烏の他に泣く者がなく、某寺に送られて墓石は苔生して、墓参りする者は稀になってしまった。
こうして亀篠は望み通り蟇六と夫婦になって、一二年を送ったころ、1443年嘉吉三年のころと思われるが、ある事件が起きた。
前の鎌倉公方足利持氏の末の子である永寿王が、鎌倉滅亡の際に乳母に抱かれ信濃の山中に逃れており、佐久の安養寺の住僧は乳母の兄でもあったので、甲斐甲斐しく世話をして匿った。譜代の近臣でもある大井扶光(おおいすけみつ)と協力し、数年養育していると鎌倉に噂が届き、関東管領上杉憲忠の老臣長尾判官昌賢(ながおはんがんまさかた)は東国の諸将と相談して、遂に鎌倉に迎えて関八州の総大将と仰ぎ、元服させて即ち左兵衛督成氏(なりうじ)とした。
そして結城合戦にて討死にした家臣の子孫を召出す旨の話が大塚まで聞こえてきた。
これを例の弥々山蟇六は、時を得たと喜びつつ、急に大塚氏の氏名を冒して鎌倉に参上して、美濃の垂井で討死にした成氏の兄春王と安王の両若君に仕えていた大塚匠作の女婿であると申し立てた。そして恩賞を乞うた結果、長尾昌賢はやがて豊島の大塚に人を派遣し、
「大塚匠作の娘に連れ合ったこと、すでに明白である」
とはしたものの、やはり蟇六の人となりに疑わしいことがあり、わずかに村長をとなることと帯刀を許し、八丁四反(13,200坪)の荘園を知行された。また大塚の陣代大石兵衛尉の下知を受けて勤める旨を命じられた。これより蟇六は瓦の屋根と門をいかめしく造り、七八人を召使い、百姓に対して年貢の過不足を責めたり、自分の田だけに水を引いたりした。
後のことは分からないが、豊かな身分になったのである。
大塚番作一戌は手束を伴って、信濃の筑摩に到着した。筑摩で湯治をする間に手足の傷は癒えてきたが、ふくらはぎの筋や腱が縮んでしまったのか、歩行が不自由になった。従ってそのまま筑摩に留まり、一年あまり送ると、父の喪は明けてしまい、まだ武蔵の母を訪れることができないでいた。
今年こそ杖にすがりついてでも大塚に行こうと思ったが、その甲斐なく、今年の夏は発熱して震えるという瘧の病に掛かってしまい、秋が終わるまで立ち上がることができなくなった。憂いと闘病の苦しみに年月が経ち、嘉吉の年号も早くに三年になっていた。
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恐らく松本近郊の美ケ原温泉と思われます
天武帝の意を受けてこの辺りに仮の宮を作るも、天武帝は崩御されてしまいました
不自由な身で番作君はここまでよく歩きましたなあ
世の中は狭く我が身を顧みず、今もなお大塚と名乗ることにはばかりを感じ、筑摩に足を留めた日から、大塚の大の字に点を加えて犬塚番作と名乗ることにしたが、生活の糧を得る仕事もない。手束はわずかに織紡ぐ麻布の糸より細く生きることしかできなかった。
仮にも三年の流浪で蓄えはすでに尽きてしまい、どうやって過ごそうかと思う折り、
「春王、安王の弟君の永寿王成氏朝臣が長尾昌賢の計らいにて、鎌倉の武将と仰がれ、戦死した家臣の子供らがあちこちに潜伏しているというので召出しなさる」
という噂を筑摩の温泉で湯治する旅人たちが語り合っている。風聞が大きくなり、何度も聞くので、犬塚番作夫婦は深く喜び、
「今は時を待とう。例え歩行には不自由であっても、ともかくにも武蔵国に行き、母と姉にお逢いして、直ちに鎌倉に推参しなくてはならない。春王丸様の形見である村雨の刀を成氏朝臣にお捧げして、父匠作のことはもちろん、舅の井直秀の忠死の旨をご報告して、我が身の進退を君にお任せしようと思う。そうしよう」
と話し合うと、夫婦は忙しく旅の用意をして、日頃お世話になっていた里人たちにも別れを告げて、武蔵国大塚に向かった。
しかし犬塚番作は片足が萎えていた。杖の力を借りて道すがら手束に助けられ、数町(一町は約110メートル)進んでは休み、三四里(約12キロ~約16キロ)進んでは宿に泊まるので、思いのほか日数が掛かった。八月に信濃を出たが、ようやく十月の末になって故郷に近づいた。
犬塚番作は今更に母の消息が心配になり、故郷から少し離れた貧しい農家に立ち寄って、
「大塚匠作という人の妻と娘はご健在か?」
とよそよそしく問うと、家主と思われる老人が稲の脱穀をしながら、夫婦を見て、
「さてはあなたたちは連中の出世をご存じないのか。母親は亡くなって二年余り、いや三年にもなるかもしれない。母親の病の看病もせずに、娘の不孝、淫乱奔放はお話しするのも心苦しい。その婿、弥々山蟇六は皆から爪弾きされたならず者だが、大塚匠作殿の縁者を名乗って八町四反の荘園をいただき、刀を持つことさえ許されて、しかも村長になってしまった。名前も今では大塚蟇六と言う。屋敷は波切の向こう、あの辺りにあるそうな」
といろいろ詳しく教えてくれた。
犬塚番作は聞きながら内心驚き、また姉の亀篠の評判や蟇六の人柄を更に詳しく聞いた。
そしてすべてを聞き終えてから外に出ると、手束とともに言葉はなく、涙を流すばかりだった。しばらくすると、犬塚番作は杖を止めて、ため息を吐いた。
「病気とは言え情けないことだ。筑摩で年を重ねて、母の臨終に間に合わず、それのみならず父の忠死を蟇六とやらに掠められて、大塚の名字を汚されてしまった。今、この件を訴えれば村雨の宝刀も我が手にあり、勝利は間違いないと言えるが、名誉と利益のために姉と争い、骨肉の姉弟の醜い争いはしたくない。従ってこの刀も鎌倉殿には献上したくない。私の姉は不孝の人だ。婿の蟇六は不義の人で裕福になった。とても頼りがたい姉夫婦に何も言いたくもない。そうは思わないか」
と呟くと、手束も涙を拭うのみで、それは当然とも言えず、慰めることもできず、眼を犬塚番作に合わせて一緒に嘆くだけである。
このことがあって犬塚番作は蟇六の元へは訪れず、里の古老たちのところに行き、自分の身の上、妻の身の上を隠すことなく明かし、心持ちを説明して、親の墓を守るためにこの土地に住むと言った。
里の老人たちは犬塚番作の苦労を憐れんで、快く引き受けて、あちらこちらの人を集めて、また番作のことを知らしめると、皆は蟇六と亀篠のことを聞いて憤るのだった。
「我が村は昔から大塚氏の領分だ。一旦は断絶はしたと言っても、本領安堵の今に至って、実子の番作殿が日陰の花と萎み、姉婿とは言いながらごろつきの蟇六にすべて横領されてしまったこと、これより不幸はあるだろうか。しかし今更ながらに争えば、世間で言う証文の出し遅れ、面倒ばかりで利がない訴えになってしまう」
「弱きを助けて強きをくじくは、我々東国の者の常じゃ。憎いと思う蟇六の面当てに、ともかくも番作殿を村中の者で引き受けて、養って差し上げよう。足が萎えていても、手が折れても、安心なさるが良い」
里の老人の一人が言えば、他の老人も同調し、更に皆は承諾した。そしてうるさいまでに騒がしく、だが頼もしく、立ちどころに衆議は一決して、番作夫婦を歓待することになった。
こうして大塚村の里人たちは、犬塚番作のために住居を探していたが、蟇六の屋敷の向かいに古くはない空き家を見つけてやった。これはちょうど良いと購入することにして、番作夫婦をそこへ住まわした。更に金銭を出し集めて、わずかながらでも田畑も買い求めてやり、これを番作田(ばんさくた)と名づけて、夫婦の生活の糧とした。
この行為は旧主の恩を思い、犬塚番作の薄幸を憐れむだけではなく、憎まれている蟇六夫婦に思い知らせるという意味もあった。剛毅朴訥は仁に近いと言うが、聖人の話す言葉もその上に成り立っているのだ。
従って犬塚番作は里人たちの好意によって、決して裕福ではないが貧しさに苦しむこともなかった。名字は姉の夫に奪われているので、今更大塚に戻しても意味がないとして、ずっと犬塚を名乗り続けた。
また里の子供たちに手習いの師範となって、親である里人に恩を報い、手束は里の女の子たちに綿を積み、衣服を縫うことを教えて、やはり親たる者たちへ恩を報い、更に里の者たちは喜んで、その年最初の野菜をいろいろとくれたり、何くれとなく結構な量の物を贈ったりした。
【時はすでに1443年嘉吉三年である。去年安房で伏姫が生まれ、今年は里見義成が誕生する。このことは第八回で示した通りである】
蟇六と亀篠は死んだと思っていた番作が、足が不自由ではあるが妻を連れて帰ってきただけではなく、里の者たちからの尊敬を集めており、驚いた。しかも自分の家の斜め向いに移住してきた様子を見ても聞いても、妬む他なかった。
今日は姉夫婦の家に来るか、明日は他人の口を使って非難させるか、と心配する有様であった。百歩の間に住んでいながらも、犬塚番作は一度も姉の元を訪れなかった。
今はもうこれまでと腹に据えかねて、ある日、亀篠は蟇六と語らった上で、人を遣わせてこう言わせた。
私は女の頼りない身だったが、母の看病は怠らなかった。親の遺言も無視できずに、蟇六殿を婿ととして招き入れ、断絶しようとしていた家を継いだことは、人の知るところである。
それなのに、弟のお前はおめおめと戦場を逃げ出し、いたちのごとく走り隠れて、母の最期にも間に合わなかった。命が助かったのを幸いに、それなりに世間を知って女性を携え、里人たちを誑かすだけでは足らずに、すでに皆に助けを求めてその恩を被っても恥としない。
しかもこれ見よがしに家の近くに住み、一度も訪ねようとはせず、他人に親しみ、実の姉を遠ざけて、無礼を働くとは何ごとか。
私はともあれ、夫は大塚の家督相続者にして、すでにこの村の村長である。およそ人の心を持たず、古代中国の北方の胡と南方の越の様に心が遠く離れてしまっても、国には貴賤の差別があり、人には長少の礼儀作法があるものだ。もしそれらを知らないと言うのなら、我が村には置いてはいけない。他所の村にでも立ち去るが良い。
犬塚番作はこれを聞いて冷笑した。
「私は不肖の息子ではあるが、父とともに籠城して主君のために命を惜しまなかった。戦場で死ななかったのは、君父のそれからの行方を見るためだ。だからこそ美濃の垂井で父の仇を討取り、君父の首を隠して、思い掛けなくも親の約束した女房の手束と名乗り合い、巡り合うことができた。筑摩の温泉で手傷を癒し、多少は治ってはきたが、歩くには不自由で長い旅には苦労した。昨年はまた長患いに一年を無駄にしてしまった。今年こそと思い起こして、杖に縋り、妻に助けられてようやく来ることができた」
犬塚番作の瞳に怒りの色が混じった。
「聞けば母が亡くなったこと、我が姉の不孝と身持ちの悪いこと、すべて人の良く知るところだった。姉婿は何の功があって、村長という重職をお受けになり、大禄をいただくことができたのか、これは私が知らないことだ。私は父の遺命によって、春王君の刀である村雨の一振りを預かってここにいる。しかしこれを鎌倉殿に献上せず、少しも争う気がないのは、我が姉夫婦の幸いではないか。番作は本当に不肖ではあるが、不孝な姉を見るに忍びず、不義の姉婿にもへつらうことができない」
そして使者にこう言い放った。
「それでもここを追い出すと言うなら、是非には及ばない、鎌倉へ訴え出て、公式の裁きにお任せいたそう」
使者は帰って犬塚番作の話した内容を言えば、亀篠はもちろん、蟇六は困って、また断腸の思いになったが、人の弱点を指摘しようとして、かえって自分の弱点をさらけ出してしまう、ということにようやく気づいて、この後は何も言わなかった。
犬塚番作は杖に縋って、母の墓参りをする時など、ばったり蟇六と顔を合わすことがあっても、話すことはなかった。
こうして十年余りの年が経った。
1454年享徳三年十二月、鎌倉公方の足利成氏が、亡父の怨敵である関東管領上杉憲忠を計略によって呼び寄せて誅殺してしまうという事件が起きた。
これにより東国は再び乱れて、次の年康正元年【里見義実が滝田城に籠城し、安西景連が滅亡した年である】には、足利成氏の軍が破れて、上杉憲忠の弟房顕(ふさあき)、その部下の長尾昌賢らによって、鎌倉を追放されてしまい、下総古河の城に籠って、合戦をまた繰り返し、数年に及んでいた。
このころ大塚番作、いや犬塚番作はつくづく考えていた。
今は戦国の習いとは言え、下位の者が上位の者を廃し、順序や秩序を覆していく下剋上という世のたたずまいが流行っている。それを見ても、私の薄幸な運命など嘆くには当たらない。
ただ後継ぎがいないことだけが不孝というが、女房手束を娶ってから十四五年の間、男の子を三人まで産ませたが、すべて赤子の時に亡くなってしまい、一人として育った者がいない。
自分と手束は同い年で、早くも私たちは三十路の齢を過ぎている。これ以上、子供を設けるのは難しいだろう。それだけが心残りだ。
不満がましい夫の呟きを聞いて、手束も同じ様に僻んでいた。
【わが心 慰めかねつ 更級や 姥捨山に 照る月を見て】という古歌があり、意味は、自分の心を慰めることはできない。更級の姨捨山に照る月を見ていると、ということだ。
ある男が、妻にそそのかされて、親のように養ってもらってきた伯母が年を取ったので山に打ち捨ててきたものの、家に帰って、山の上にある月を眺めていると、悲しい思いに反省し、伯母を連れに戻ったという話だ。
ともかく手束も自分の心を慰めきれずにいたが、たちまち考えを改めて、滝野川の弁財天はこの辺りでは古いお社であり、霊験ありと人が噂しているので、祈れば応報が必ずあるだろうと思い立った。早速夫に告げて、次の日から朝早く起きて、滝野川弁財天に日参し、子宝を得ることを真剣に祈った。
【関連地図】
大体のイメージです
大塚から滝野川は今でもそんなに遠くありませんね
今なら都電ですぐ行けてしまいます(笑)
今年1457年長禄元年の秋から初めて、【伏姫が八房に伴われて、富山の奥へ入った年である】三年の間、一日も怠らなかった。
時に1459年長禄三年、【伏姫が自決した翌年である】、九月二十日過ぎのことであるが、手束は時間を間違えてしまったのだ。夜明けに残る月影を登る日の出と勘違いしてしまい、急いで宿所を出て、滝野川の岩屋殿に参詣した。宿所へ戻ろうとするが、夜はまだ明けていなかった。
「遅いな」
と呟きながら、秋の露を払いつつ帰る途中、田の畔で捨てられたと思われる犬の子を見つけた。犬の子は背が黒く、腹は白く、人待ち顔に尾を振って、手束の裾にまとわりつくのである。
追い返しても追い返しても手束をまた慕って着いてきて、離れる様子もないので、とうとう持て余しつつ立ち止まって、
「ここまで人を慕うものを誰が捨てたりしたのか、良く見れば雄の犬だ。犬はたくさんの子を産むし、子供は必ず育つ。それにあやかって赤ん坊の枕に犬の張り子を置くのだ。神様へ歩みを運んで、子供を授けて欲しいと祈っているのに、どうしてこれを拾わないでおれようか。連れて帰ろう」
と独り呟き、子犬を抱き上げようとした瞬間、南の方角に紫の雲がまっすぐにたなびいて、地面すれすれに黒白の斑の老犬に座った艶やかに美しい一人の山姫が現れた。
山姫の顔は、古代中国の楚の国の宋玉が夢に見たという神女の面影を留めており、或いは三国時代の魏の曹植が筆を託した洛神賦、洛水の女神の様に見える。
山姫は左手にたくさんの珠を持ち、右手で手束を招きながら、しかし無言で一つの珠を投げた。
【庚申塚に手束、神女に謁す】
犬に乗った山女にて神女。果たしてその正体は……ご存じですよね。
漫画みたいに集中線が入ってますね、凄い!!
手束はこの奇跡を見て、恐る恐る畏まってはいたが、投げられた珠を受け止めようと手を伸ばしたが、珠は指と指の間を洩れて、ころころと子犬の近くに落ちてしまった。犬の周りをそこかと探しても、どこを探しても見つからない。
不思議なことだと天を見上げたが、紫の霊雲はもう跡形もなくなっていて、神女も老犬の姿も見えなかった。これはただごとではないと思って、再び子犬を抱き上げて、急いで宿に戻り、今起きたことを夫の犬塚番作に告げた。
「神女の姿は山姫というものに似ていて、弁財天ではないようでした。山姫が授けようとして下さった珠は、子種だったかもしれませんが、見失ってしまいました。願いごとがかなわないかもしれません。心残りです」
と言えば、犬塚番作はしばらく考え込んでいたが、
「いや、そうではない、その神女は黒白斑毛の老犬に乗っていらしたのだろう。それに私の氏は大塚だったが、犬塚に改めた。また私の名は一戌だ。一戌の戌の字はすなわち干支の戌であれば、名は本質を示す、の言葉通り、頼もしい。しかもお前は、求めてもいなかったのに子犬を得たではないか。念願成就の前触れに違いない。その子犬を逃がさないで育ててみよ」
と諭した。
手束はなるほどと思ったが、半信半疑だった。
しかし犬塚番作が論じた様に、手束はしばらくすると身重になって、1460年寛正元年秋七月、戊戌の日になって無事に男児を産んだ。
この子は名にしおう八犬士の一人にして犬塚信乃(いぬづかしの)と呼ばれる者である。信乃のことはなお後の物語で詳しく描かれるだろう。
犬塚信乃の列伝は、父祖の詳細まで細かく述べたがその他のことは省略する。
これより後、七犬士の列伝に至っては、それぞれの家伝を省略し、ただその人の身上を描くものである。物語を綴り、義を演じる、用心には用心を重ねよう。
読者はよろしく察して欲しい。
(続く……かも)