2023年12月2日北野天満宮と白峰神宮に行ってきました。
遅く起きて遅く出発してしまいました。お昼ご飯は新福菜館のラーメン+焼き飯(小)セット1,150円です。
チャ-ハンではなく、焼き飯なんですよ。黒焼き飯です。
満腹で大満足です。
さて京都出町柳駅でこんなものを発見。
ってことで203系統のバスに乗ります。
出町柳4番出口を出たところです。
203系統のバス停は少し銀閣寺方面に歩いたところにあるので要注意。
バスはすぐに来ました。途中、同志社大キャンパスや京都御所を通ります。
あ、今日は御所見学ができるのですね。私は入ったことがないので、今度行きたいな~
と考えているうちに北野天満宮に到着です、出町柳からおよそ20分でした。
一の鳥居です。14時過ぎですが参拝客は極めて多いですよ。
楼門。主祭神菅原道真を称えて「文道大祖風月本主」と書いてあるんですって。
宝物殿。今日の第一目標なんです。
刀剣乱舞ファンには垂涎ものの「宝物殿特別公開-歴史と美、刀剣物語-」という特別展を催行しているのです。
私は刀剣女子ではありませんが、刀にはそれなりに興味があるので、明日で終わりの展覧会にやって参りました。
前売り券は1,400円でした(;´Д`)一部撮影不可です。
入っていきなり眩しいです。信濃守堀川國広。
美しいですね。向う側のお姉さんも真剣です。
1607年(慶長十二年)豊臣秀頼奉納の太刀なんです。
鞘、太刀の拵えです。
美麗ですな。
脇差の猫丸。菅公自らが打ったという逸話があるのです。
可愛らしい名前ですが、猫が立て掛けてあった刀に触れた瞬間、真っ二つになってしまったという蜻蛉切り並みのエピソードがあります。可哀想な猫さん((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
進みます、あっ、一躍輝くコーナーが!!
号は鬼切丸髭切、銘は安綱!!しかし長いな(笑)
これを見るためにやって参りました。
ふ、美しいです。
気のせいですが輝いているのです。
試し切りの話といい、渡辺綱の鬼切りの話といい、情報量が多すぎるのです。
更に南北朝のころ、新田義貞が所有していましたが、義貞戦死後、討取った斯波高経が持つこととなりました。
斯波高経の主人である足利尊氏が引き渡しを命じても、高経は理由をつけて断ったらしいんですよ。
いやあ、本当に素晴らしいです。さすが天下五剣、でした。
眼福ですね。
いちいちキリがないのですが、数多くの刀が展示されていました。
また刀剣乱舞示や歌舞伎の衣装までが飾られていました。
梅紋の土蔵です。
まだお参りしてませんでした(;´Д`)本殿へ向かいます。
三光門。三光は日月星を指すそうです。ただし星だけ彫刻が見当たらず、天神七不思議なんですって。
額は後西天皇。
国宝の本殿です、お参りをしました。御朱印は長蛇の列に涙を呑んで諦め。
大宰府に左遷された菅原道真を慕って飛んで行った飛梅伝説の梅らしいですよ。
東風吹かば にほひをこせよ 梅花 主なしとて 春を忘るな
の歌ですね。
社の北西部です。美しい建築ですね。
さて行き止まりですので、境内の西側を南下します。
秀吉が京の都を立て直すために作った防塁壁の一部、御土居(おどい)です。
紅葉も美しい。
紅梅殿に差し掛かり、橋を渡ります。ちなみに水はありません( ;∀;)
絵馬所。三十六歌仙の絵が飾ってあります。小野小町たんです。
別嬪さんに描かれております。
達筆過ぎて読めませんが、「花の色は移りにけりな」ですかねえ?
撫で牛さんを撫でていたら15時を過ぎました。
次の目的地、白峯神宮まで1.6キロを急いで歩きます。東に向かって20分、到着です。
白峯神宮はこんなところです。
1868年(慶応四年)と比較的最近の神社ですが、主祭神が崇徳天皇と淳仁天皇なのです。
日本最大級の怨霊と考えられている崇徳天皇を祀っています。
第72代白河天皇は藤原璋子を養女として育てた後、孫の鳥羽天皇に嫁がせます。
ところが宮廷の醜聞として、白川帝(院)と璋子ちゃんは通じていた。白川院に通じたまま、鳥羽帝に嫁ぎ出産、生まれたのが後の崇徳帝なのだそうです。
鳥羽帝は生まれた崇徳が可愛い訳がないのですが、まだ権力を持っている白川院の意向で、わずか3才の崇徳を皇位に就けざるをえません。
白河院が亡くなると鳥羽が院政を敷きます。ここからの鳥羽がキツいんですよね。
23才の崇徳を帝から退かせ、崇徳の弟を近衛帝として即位させます。ところが近衛帝は17才で崩御してしまいました。
父である鳥羽院と暗闘していた崇徳院も皇子がいたので、自分の子供が皇位に就けば問題がなかったのですが、鳥羽院は崇徳院の弟であり亡くなった近衛の兄である皇子を後白河帝として即位させてしまうのです。
後白河は、後に日本一の大天狗と源頼朝にあだ名をつけられてしまう人なんですよ。
鳥羽院は自分が亡くなる時ですら体面を拒否しているくらいですから、本当に崇徳院が嫌いだったんでしょうか。
分かりにくいですよね。学生時代にこの話を聞いた時ややこしくて良く分かりませんでした。
書いてみると分かります。
白河帝(72代)
↓
堀川帝(73代)
↓
鳥羽帝(74代)
↓
崇徳帝(75代)-----後白河帝(77代)-----近衛帝(76代)
お爺さん(白河)が孫(鳥羽)のお嫁さんに手を出して、崇徳を出産させてしまった。
お爺さんが亡くなると鳥羽が権力を握り、不義の子である崇徳を追い出して崇徳の弟扱いの自分の実子たちだけを優遇していった。
崇徳は権力を握れそうもない。
どうする崇徳院?
崇徳は朝廷の不満分子と武家を仲間に反乱を起こしたのです、仲間にした武将は源為義と平忠正がメインで、ちと貧弱貧弱な感じ。
源為義は八幡太郎源義家の孫ですが息子説もあります。頼朝の祖父。
平忠正は平清盛の叔父。
これが保元の乱なのです。
かくて敗れた崇徳院は命こそ助けられましたが、讃岐の国の今の坂出市辺りに流罪となりました。いつか京に帰らんと写経した経典を贈りますが、後白河帝は受取りを拒否、激怒した崇徳は天狗になり朝廷を呪うのでした。
その後、二度と京都に戻ることなく46才の若さで崩御するのです。崇徳院が葬られた坂出に白峯寺、白峯御陵があるんだそうです。
鎌倉、室町、江戸と経てきましたが、権力者たちが何回か崇徳院を慰める機会があったようです。
幕末に至り、孝明天皇が崇徳院の御霊を京都に戻す様徳川幕府に命じますが、ご自身が崩御。継いだ明治帝は1868年慶応四年に勅使を使わすのです。勅使が戻ると、翌日に明治帝は参拝し、更に次の日、明治に改元したのです。
当時の人々が崇徳院を恐れていたことがこの話から分かりますよね、菅原道真、平将門、崇徳院が日本三大怨霊とされています。
ああ、何だか長い話になってしまいました。
淳仁天皇もまた哀れな帝です。淳仁という名前は明治以降なんですって。
元々は廃帝、淡路廃帝と呼ばれてて悲しい扱いの方でした。
詳細は詳しく書きませんが、孝謙称徳女帝に帝の座を追われて、淡路島に流されたのです。
そんな二人を主祭神にした神社の入口。
さあ入りましょう、怖くない怖くない……右近の橘、左近の桜がありました。
樹齢800年の小賀玉の木。
ん?FCバルセロナ?拡大してみましょう。
コンサドーレ、モンテディオ、トリニータ……
ヴェルディ、ヴァンフォーレ、ガンバ、ジュビロ……いずれもサッカーチームの提灯。
蹴鞠場です。ここは飛鳥井という蹴鞠を得意とする公家の屋敷跡だったんですよ。
武道の神もおわします。
崇徳院に与した源為義と弓の達人鎮西八郎源為朝を祀っており、弓道の神様でもある訳です。
保元の乱では負けましたけどね。
竜神も祀っていますよ。
怨霊だけではなく歌人としても崇徳院さんは知られています。
瀬をはやみ 岩にせかるる瀧川の われても末に あはむとぞ思ふ
お参りをしますが……鈴が大きいです。
手で持つのですよ。巫女さんに教えていただきましょ。
もっと暗鬱な場所を想像していましたが、そんなことは全然ありませんでした。
サッカー部や他の運動部っぽい学生さんが来ていましたし、お守りもそんな風になっています。
見れば弓道部の絵馬や空手道場の案内がありました。
災い(の神)を転じて福(運動部の勝利)となしたのでしょうね。
ちょうど神社前がバス停です。出町柳駅を目指して退散します、でわ。
と思っていたら、これはこれは!
「刀」
こらまた怖い刀ぞろいで!ゾクっとするようなものばかり…画像だけでもビビる最強刃物=日本刀
花の色は…直筆なんてのこってるんでしょうかね?
刀は確かに怖いですよね、見てる分には美しくて素敵なんです。
小町含めて三十六歌仙の絵がありましたが、後世のものだと思います。
絵はいつ描かれたか説明はありませんでしたが、絵を飾ってある絵馬所は1699年(元禄十二年)ですって。
こちらでは大宰府の道真公が身近ですが、学問の神様と崇められています。
梅が枝餅が実においしい。
大宰府は一回行ったことがあります。
素敵なところでした。まさか菅公が怨霊化するなど思えなくって(笑)
その時は大野城を攻略したのですが、道が分からず断念した苦い思い出があります。
水城が続100名城に選ばれたので、また行かねばならん、と思っています。
梅が枝餅……きっと食べてないなあ。是非味わってみたいです。