一昨日の千恵子選手に続き、私も今日無事傘寿を迎えた。
長寿の確たる定義はないとは言うものの還暦、古希、喜寿をすぎ、
今回傘寿を迎えたのだから長寿の仲間入りしたと言ってもいいのでは
ないだろうか。
年齢は積み重ねてきたが、自分では老いを感じてはいない。
それは体が健康だからだけではなく、気持ちの問題もあるからだと思う。
私の頭の中には常に『年を重ねるだけでは、人は老いない。理想を
失うことによって人は老いるのだ』というサミュエル・ウルマンの言葉が
躍動し、自分もそうありたいという気持ちが自分自身を健康に導いていると
思うのである。
その『青春』という詩を時々読み返し、何気なく意識することが老いを
感じないことに繋がっているのではないだろうか。
『青春とは人生のある時期ではなく、心の持ち方を言う』という言葉も
好きだし、皺の増えた自分の手を見る時も『歳月は皮膚の皺を増すが、
情熱を失う時、精神はしぼむ』を思い出す。
そして自分ではなかなかその気持ちを継続して維持したり、表面に
表したりできないこともあるが心ではいつも
『人は信念とともに若く、疑惑とともに老ゆる』
『人は自信とともに若く、恐怖とともに老ゆる』
『希望ある限り若く、失望とともに老い朽ちる』という言葉を意識し、
『人は自信とともに若く、恐怖とともに老ゆる』
『希望ある限り若く、失望とともに老い朽ちる』という言葉を意識し、
自分の健康な体に感謝しながら自分にできるものとして大切なものは
脳も体も気力も衰えさせないことだと感じ、ウルマンの「青春」で
語られていることの意味を理解し、少しずつでも実践していきたいと思う。
理想などというと難しく聞こえるが自分の考え、思いや想い、そして
それを意識した行動を実践しようという信念や信条を言うのではないかと
自分なりに考えている。
その一つが私の単純な『いつも、いつでも元気炸裂!』なのだ。
一般的には高齢化に伴い、活発に動く「活動」や、意識を持って何かを
しようとする「行動」の範囲も量も少なくなっていくものだと考えられる。
勿論環境にもよるだろうが自分の意識や意思でそれは変わるのでは
ないだろうか。
年齢を重ねると体力と共に気力も減退することが考えられるが
ウルマンの言葉のように心の持ち方でイキイキ、溌溂とした人生を
送れるのだと私は思う。
幸い丈夫な体を持ち、様々な痛みにも平気で、健康にはほとんど
問題がなかった私も10年前、胆石の痛みで多少つらい日々が続いた時、
今後のためにも・・と、胆嚢の全摘出手術を行うこととし、敢えて
70歳の誕生日(5月15日)に行うことにしたのだが・・・
そのころは死亡例など失敗例もあり、まだ多少疑問視もされていた
「腹腔鏡手術」を選んだのだが、誕生日であれば成功しても失敗しても
忘れることはないと考え、誕生日を選んだのだ。
万が一命を失うような事になっても「古希」までfumiel-shimaらしく
生きたという誇りの様なものを持てるのだと思って・・・。
その時はもちろん死などは考えず、医学と医師を信頼し、自分の生きる力を
誰よりも自分が信じていたので何の不安もなかった。
そのころ中学生だった孫娘は私のことを常に心配し、一緒に食事を
する時なども『じじは胆嚢がないんだからねっ』と厳しい言葉と共に
優しく見守ってくれていた。
そんな日から10年、私は健康のまま傘寿を迎え、この先も元気で
米寿、卒寿、白寿、百寿を超え、目標の125歳まで健康状態のまま
生きるつもりでいる。
125歳まで生きたいのではなく、生きるのだと・・・
私が125歳になっても依然としてバーベルやダンベルなどの重量物を
使う筋トレを続け、バッティングセンターで速球を打ちまくり、もちろん
車も運転し、町内運動会でもその雄姿(?)を披露しようと自己顕示欲が
旺盛になっているかもしれない。
(本来は目立ちたがり屋ではないつもりだが・・・)
そんな私をそのころに古希を迎えるであろう私の孫とその家族が
「ナニコレ珍百景」などに登録依頼をするかもしれない。
ただ・・・
そのころにはもうネプチューンの3人組はもちろん、現在の司会者たちも
引退や退職しているだろう。
「珍百景である私」を紹介してくれるのは今から10年以上も先に
生まれてくる人でどんな人なのか現在は誰も知らない人だと思うと
不思議な話だと感じる。
珍百景と不思議な話・・・これが45年後の私だと考えると楽しみが何倍にも
膨れ上がる。
まったく「荒唐無稽な話」・・・それをやってのけるのが私なのだと思うと
これからの毎日がまさに「ちむどんどん」連続の日々となる。
今日の千恵子選手の『絵手紙コーナー』
(青の太文字はfumiel-shimaの一言)


自然界の不思議にも目を
向ける 頑固さもこだわりも必要だが・・


ネギ坊主の弾ける様をみて誰もがそれぞれの人生で自分が
主役だという意識が必要なのだと思った。


唐辛子類が大好きな私(fumiel-shima)腰は曲がっていても
鷹の爪の様にピリッとしたものを感じさせる朝市のおばあちゃんの
顔の深いしわが印象深かった。


コロナ禍の続く現在、私の仲間「爺さんカルテット」とも実際には
会えないのでそれぞれと同じ個性的なグラスで実体のないエアー乾杯




