少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
長崎原爆投下訓練用の“模擬火薬爆弾”49発を30都市に空襲投下、死者400人
■この空襲は原爆投下の予行演習と第3発目以降の“候補地”の見極めか?
言うまでもなく広島に続き、1945(S20)年8月9日、長崎にはプルトニウム型原爆が投下された。一瞬にして、約7万4千人が亡くなり、約7万5千人が重軽傷を負った。あまり知られていないが今回投稿者が注目したのが、長崎への原爆投下に先立ち「投下訓練用」(予行演習用)として通常火薬を使った“模擬爆弾”が作られことだ。そのため長崎原爆と同じ寸法・長さ3.25m・直径1.52m、同じ重量4.5トンで、爆弾はカボチャのような色と形から「パンプキン」と呼ばれた。米軍は原爆投下の精度を上げることと落下軌道の検証を行うために、B29爆撃機によって7月20日から終戦の前日年8月14日まで、国内30都市に延べ52回(広島と長崎の両原爆含む)高度9000mから空襲投下が続けられた。このテスト爆弾によって、400人以上が亡くなり1300人以上が重軽傷を負った。長崎原爆投下後も模擬爆弾が落とされたのは、通常の空襲でも効果があるか試されたものだ。しかしこの巨大爆弾より、小型爆弾数発のほうが威力があるとして中止された。本来の原爆目標は福岡県・小倉だったか、当日の天候不良によって第2目標の長崎に変更された。
空襲の地域は、福島県6(回数)、茨城2、東京2、新潟3、富山4、福井1、静岡3、愛知8、岐阜1、三重3、和歌山1、京都2、大阪1、兵庫4、広島1、山口3、徳島1、愛媛4、長崎1、※爆撃機故障により海上投棄1、計52回の空襲を行った。主に、国内の軍需工場がターゲットにされた。B29爆撃機は、日本から約2500km離れた北マリアナ諸島のテニアン島が拠点だった。さらに今となって恐ろしいことは、8月9日にテニアン島から2機のB29が米国本国に原爆を取りに舞い上がったことだ。いわゆる「第3の原爆投下」を準備し始めていた。日本が躊躇して長々と「ポツダム宣言」を受諾しなかったことから2発の原爆を受けたが、さらに長引かせていたら「3発目の原爆」が落とされていただろう。52回の各地への空襲は、“3発目”以降を想定しての「原爆投下」候補地を見極めていたのだ。しかし原爆が落とされた広島・長崎が、事前に“空襲演習”しなかったのかは不明。なお上記写真は、2009年、滋賀県大津市歴史博物館で開催した「戦争と市民」展で、子供達が戦争を考えるきっかけにしようと、当時、学芸員だった橋爪修・元館長が発案し、米軍資料を精査して実物と同じ大きさで作ったパンプキン爆弾の模型である。本物の「長崎原爆」(下記の写真)⇒それを同一形状化した「パンプキン爆弾」⇒それを真似た爆弾模型(上記写真)。
テニアン島に運び込まれた長崎原爆(本物)=1945年、写真は米国立公文書館所蔵
■原爆によって「米兵100万人の死傷者が救われた」正当化論は米国内へ恣意的な作為
映画「オッペンハイマー」の例など、米国では依然、広島・長崎への原爆投下を正当化することが根強く残り、核兵器禁止と廃絶の妨げになっている。当時の米国の経緯を調べてみると、翌年の46年、連邦キリスト教会評議会から、さすがに原爆投下は「道徳的に弁護の余地なし」との批判が高まったのである。そこで原爆正当化の対抗策が打ち出され、代表的なものが「人命救助論」だ。1945年当時、米軍は日本との戦争を終結するため「日本本土上陸作戦」が計画され、突撃すれば“日米双方で数十万人の命が失われる”被害予測が出されていた。米国内の原爆投下への批判が高まるにつれて、「原爆投下によって上陸作戦は中止され米兵100万人の死傷者が救われた」、トルーマン大統領は「50万人の米国民の命が救われた」と恣意的に水増しされ、原爆を正当化しようとした。その論理が今日まで、米国内では支配的な見方が定着しているのだ。もっと言えば、米国大統領や軍部は、原爆投下が「日本の降伏に不可欠だ」と考えていなかった。その先を睨み、戦後、米国が世界で支配権を獲得するためである。特に、対ソ連=現ロシアとの米ソ冷戦、核開発競争を前提にしていた。言わばそのために、日本(広島・長崎原爆投下)が利用されたことだ。
長崎原爆投下訓練用の“模擬火薬爆弾”49発を30都市に空襲投下、死者400人
■この空襲は原爆投下の予行演習と第3発目以降の“候補地”の見極めか?
言うまでもなく広島に続き、1945(S20)年8月9日、長崎にはプルトニウム型原爆が投下された。一瞬にして、約7万4千人が亡くなり、約7万5千人が重軽傷を負った。あまり知られていないが今回投稿者が注目したのが、長崎への原爆投下に先立ち「投下訓練用」(予行演習用)として通常火薬を使った“模擬爆弾”が作られことだ。そのため長崎原爆と同じ寸法・長さ3.25m・直径1.52m、同じ重量4.5トンで、爆弾はカボチャのような色と形から「パンプキン」と呼ばれた。米軍は原爆投下の精度を上げることと落下軌道の検証を行うために、B29爆撃機によって7月20日から終戦の前日年8月14日まで、国内30都市に延べ52回(広島と長崎の両原爆含む)高度9000mから空襲投下が続けられた。このテスト爆弾によって、400人以上が亡くなり1300人以上が重軽傷を負った。長崎原爆投下後も模擬爆弾が落とされたのは、通常の空襲でも効果があるか試されたものだ。しかしこの巨大爆弾より、小型爆弾数発のほうが威力があるとして中止された。本来の原爆目標は福岡県・小倉だったか、当日の天候不良によって第2目標の長崎に変更された。
空襲の地域は、福島県6(回数)、茨城2、東京2、新潟3、富山4、福井1、静岡3、愛知8、岐阜1、三重3、和歌山1、京都2、大阪1、兵庫4、広島1、山口3、徳島1、愛媛4、長崎1、※爆撃機故障により海上投棄1、計52回の空襲を行った。主に、国内の軍需工場がターゲットにされた。B29爆撃機は、日本から約2500km離れた北マリアナ諸島のテニアン島が拠点だった。さらに今となって恐ろしいことは、8月9日にテニアン島から2機のB29が米国本国に原爆を取りに舞い上がったことだ。いわゆる「第3の原爆投下」を準備し始めていた。日本が躊躇して長々と「ポツダム宣言」を受諾しなかったことから2発の原爆を受けたが、さらに長引かせていたら「3発目の原爆」が落とされていただろう。52回の各地への空襲は、“3発目”以降を想定しての「原爆投下」候補地を見極めていたのだ。しかし原爆が落とされた広島・長崎が、事前に“空襲演習”しなかったのかは不明。なお上記写真は、2009年、滋賀県大津市歴史博物館で開催した「戦争と市民」展で、子供達が戦争を考えるきっかけにしようと、当時、学芸員だった橋爪修・元館長が発案し、米軍資料を精査して実物と同じ大きさで作ったパンプキン爆弾の模型である。本物の「長崎原爆」(下記の写真)⇒それを同一形状化した「パンプキン爆弾」⇒それを真似た爆弾模型(上記写真)。
テニアン島に運び込まれた長崎原爆(本物)=1945年、写真は米国立公文書館所蔵
■原爆によって「米兵100万人の死傷者が救われた」正当化論は米国内へ恣意的な作為
映画「オッペンハイマー」の例など、米国では依然、広島・長崎への原爆投下を正当化することが根強く残り、核兵器禁止と廃絶の妨げになっている。当時の米国の経緯を調べてみると、翌年の46年、連邦キリスト教会評議会から、さすがに原爆投下は「道徳的に弁護の余地なし」との批判が高まったのである。そこで原爆正当化の対抗策が打ち出され、代表的なものが「人命救助論」だ。1945年当時、米軍は日本との戦争を終結するため「日本本土上陸作戦」が計画され、突撃すれば“日米双方で数十万人の命が失われる”被害予測が出されていた。米国内の原爆投下への批判が高まるにつれて、「原爆投下によって上陸作戦は中止され米兵100万人の死傷者が救われた」、トルーマン大統領は「50万人の米国民の命が救われた」と恣意的に水増しされ、原爆を正当化しようとした。その論理が今日まで、米国内では支配的な見方が定着しているのだ。もっと言えば、米国大統領や軍部は、原爆投下が「日本の降伏に不可欠だ」と考えていなかった。その先を睨み、戦後、米国が世界で支配権を獲得するためである。特に、対ソ連=現ロシアとの米ソ冷戦、核開発競争を前提にしていた。言わばそのために、日本(広島・長崎原爆投下)が利用されたことだ。