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沖縄戦の映像「震える少女」をご存じですか?恐怖におののく姿を米軍が撮影した/少数派

2024年08月14日 | 戦争を繰り返すな
Ns170minoritytp 少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
沖縄戦の映像「震える少女」をご存じですか?恐怖におののく姿を米軍が撮影した


左/沖縄戦・米軍占領の恐怖のあまり座りこんだまま体をがたがたと震わせる少女(米軍撮影画像) 右/現・浦崎末子さん

■まず投稿者の文章|戦後74年の2019年に名乗り出た!しかし見知らぬ男に威嚇される
太平洋戦争のTV報道や戦争を収録したDVD宣伝などに、「震える少女」の画像がよく使われているのをご存じですか?(当ブログの画像は静止画)。見たことあるでしょう!この少女は浦崎末子さんと言い、2019年当時、81歳。それまで本人は自分に似ていると思いつつ、名乗り出たのが2019年6月。下記にその経緯についての文章―2019年当時の毎日新聞・しんぶん赤旗・その他の資料をまとめた。浦崎さんは、戦争後74年(2019年時点)経過した後も、「戦争は本当に恐ろしい。二度と起こしてはだめだ」と訴える。恐怖の経験、平和の大切さは本文をご覧になって欲しい。先ほどから2019年を強調したのは、同年8月、浦崎さん宅に突然、面識のない男が現れ無断で家の中に入り込み、こともあろうか新聞に掲載されたことを「叱責・威嚇」したそうだ。男の意図は分からないが、右翼思想か戦争を美化する人間にとって、「震える少女」画像は邪魔な存在だったのであろう。だからと言って、恐怖の体験をされ高齢の方を脅すことは許されず、あまりにも非常識だ。それ以降、浦崎さんは身を潜め安否・ご存命かも分かっていない。投稿者は5年間その後の情報を待ったが、情報検索に表れないのでやむなく19年当時時点の内容を記事化した。

■少女を震えさせた沖縄戦「恐ろしい」「誰が悪いのか」「戦争は二度とだめ」
太平洋戦争で唯一、住民を巻き込んだ地上戦が繰り広げられ、県民の4人に1人が犠牲となった1945年6月の沖縄戦。その悲惨さを象徴する場面として全国に伝えられた米軍撮影の記録映像(動画)が、米兵を前に「震える少女」だ。映像は、沖縄県高嶺村の農道に座り込んだ少女が、2人組の米兵から水筒で水をもらいながら、がたがたと体をふるわせる姿を映し出している。少女がまだ7歳だった頃の不安と恐怖の体験を、こう証言した。「アメリカー(米兵)を目の前で見るのは初めてで、青い目が怖かった。見慣れない撮影機が何か武器に見え、撃たれるのではないかと怖くなり、がたがた震えた」「米兵が差し出した水筒やお菓子は姉たちから『米軍の食料には毒が入っているから食べてはだめだ』と教わっていたので手をつけなかった」。「震える少女」は、私だと名乗り出た浦崎末子さん・2019年当時、81歳。この少女を自分と重ね合わせ、「似ている」と初めて感じたのは2005年の戦後60年特集のテレビ報道だったと言う。

しかし、「自分だ」と言えるまでの確信がなかなか持てなかった。なぜ映像を“私だ”と確信できたのか―。「身につけている服は、近所のおばぁが着物をほどいて作ってくれた柄と同じだった。座っていた場所は、アンマー(母親のこと)と一緒に、頭の上に芋などの野菜を乗せていつも町まで運んだ通り道だったから覚えていた」。浦崎さんは6人きょうだいの三女で上に姉と兄が2人ずついた。米軍の艦砲射撃や爆弾から逃れ、15歳上の次女と避難場所を捜していた。その次女が別行動だった母と三男を捜すから、ここで座っているようにと言われ、夜明け前の暗闇の中、1人でいました。浦崎さんと戻ってきた次女は、その日のうちに米軍が越来村(現、沖縄市)に設置した収容所に移された。母と三男にも3日後に再会したが、母のいない寂しさと不安で毎日、泣き明かした。三男はその後、避難中に受けた米軍の催涙弾の後遺症で死亡。父と長男も戦死し、その次女も戦時中の傷がもとで亡くなった。8人家族のうち、生き残ったのは4人だけだった。

「あんねーる戦(いくさ)でぃ、むるうらんなてぃ(あんな戦争でみんな死んでしまった)。戦争が憎い」。家族4人をはじめ、幼友だちなど多くの命を奪った沖縄戦への浦崎さんの記憶は今も鮮烈だ。山林の「ガマ」とよばれる住民や日本兵が逃げこんでいる避難壕(ごう)などに向けて、容赦なく放たれる戦車からの火炎放射や砲弾の連射。日本兵か住民かの区別のつかない、黒く焦げた死体が横たわる道を進軍する米軍。集落の奥深くまで侵入して、砲撃を繰り返す戦車と海兵隊の歩兵部隊など。浦崎さんは、「こんな戦争を仕掛けたのは誰か、誰が悪いのか」と。目に涙をにじませ、力を込めた。「戦争は本当に恐ろしい。またんあてーならん(二度と起こしてはだめだ)」。


追記/「焼き場に立つ少年」も、ご存じだろうか?死んだ幼子を背負う少年が、焼き場の前に立ち火葬を待つ姿だ。これは1945年、長崎の原爆投下後と推察される。2018年に来日したフランシスコ・ローマ法王(現表記:教皇)が関心を持ち、戦争を問い写真をカードに印刷して配布を指示した。但しこちらは少年の特定には至らず、不明な点が多く見解が分かれる。そのため投稿者は、もう少し勉強してから投稿する予定だ。

Ntopkeiji

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